#7 千葉雅也「デッドライン」

日本には私小説というジャンルがある。

自然主義の隆盛とともに盛り上がりを見せたジャンルであるが、今はめっきり衰退したとされている。

しかし、この作品を「私小説」とせぬのであれば、他になんと言えようか。

 

   ◆

 

ところで、「私小説」とはいかように定義せらるべきか。

一般に、小説家が日常にあった些細な出来事を、事実そのままに書いた作品と判ぜられるに違いないが、実際にはそれは間違いである。

自然主義全盛の時代、私小説全盛の時代には、小説家はアイドルだったのだ。現代のアイドルもまた、折に触れて雑誌のインタビューやら何やら、自らの私生活を切り売りする。

しかし、実際のアイドルがそうであるように、そもそも雑誌に書かれているアイドルの私生活など、そもそも信じるに値しない。小説家も又そうである。私小説に私生活を書いているように見えて、実際にはそこに作為や編集が加わっていることは否定しがたい事実だろう。

そして小説家は、私小説書き続けることによって、それを通読する読者の中に、自らの像を映し出す。言い換えれば、私小説を読むためには、「その作家がどのような人物であるか」というコンテクストを把握している必要がある。

ところが私小説にはその点において倒錯が生まれる。すなわち、コンテクストによって私小説を読む、という構図は、私小説によってコンテクスト=作家のライフヒストリーを読むという風に転倒する。

そして、おそらくその倒錯が、私小説退潮の一因になったのではないかと思うのだ。作家がアイドル然ともてはやされる時代が終わったのも、それと同期しているようではないか。

 

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しかして、現代の論壇のアイドルたる千葉雅也氏が私小説を書いたことには、一応の筋道が通るはずである。

千葉雅也氏の小説を喜んで読むのは、当然氏のファンか、氏のことを一応知っている人に違いないから、私小説を読むためのコンテクストは織り込み済み。そのコンテクストとはつまり、彼がドゥルーズの研究者であることと、同性愛者であることだろう。

だからこそ、物語はハッテン場から始まる。そこに至るためのカミングアウトは不要というわけだ。

 暗闇に目が慣れてくる。ほとんど真っ暗な通路の奥へと歩いていく。その途中の左右には、やはりほとんど真っ暗な部屋、というか窪みのような、トイレの個室ほどの空間がいくつかある──蟻の巣の構造みたいに。目が慣れてくると、パンツ一枚の男たちの顔がぼんやりとわかってくる。比較的筋肉質の若い男ばかりだ。一人の男が暗闇の奥へ消えていくと、別の男がその後に付いていく。さらに別の男がその後から付いていく。男たちは連動する。車間距離を測りながら走る車のように、あるいは、群れなして回遊する魚のように。

ここだけ見れば、文体は極めて「小説」的に見えるが、その後はそうでもない。むしろ随筆の類の雰囲気を湛えながら進んでいく。作中に登場するKなる人物が、おそらく夏目漱石『こころ』を意識させるために配置されたのであろうことは、実際にはそれほど重要ではあるまい。

おそらく『こころ』の下において「私」(上中における先生)とKとお嬢さんの成す欲望の三角形のロジック、すなわちKがお嬢さんを愛していると知った途端、「私」もお嬢さんを愛しているような気がしてくるというロジックを引き合いに出し、むしろこの作品における主人公とKと別の女性の間では、主人公が同性愛者であるがゆえにこれが成立しないことを示している。

しかし、『こころ』とはそもそもそんな簡単なテクストではない。『こころ』には書かれていないことが多すぎて、いかようにでも解釈できる。この多義性を、むしろこの作品の欠点として指摘したのは小森陽一氏だったが、東浩紀氏の解釈によれば、上中を記した「私」と先生は同性愛者であったという。(この解釈には問題もあるのだが)

だから、この『こころ』を間テクスト的に「活用」してみせた振る舞いが、いったいどれほどの効果を持つのか、疑問を投げかけないわけにはいかないのだが、さしあたり保留を。

 

   ◆

 

と、物語は後半になって、修士論文の提出の「デッドライン」が迫ってくるという仕立てである。しかし、そのように「締め切りが迫ってくる」という事実自体はさほど重要ではない。

 そんな状態で締め切りが確実に迫っていたが、それでもなんとかなるつもりだった。ミラクルが起きるに違いない。…

この期に及んで、主人公は「ミラクル」に期待していた。締め切りがいくら迫ろうとも、そこに焦ったりなどはしないで、ただじっと待つ。何かが起きるのを待っているのである。

だからこそ、この小説が初めて小説らしい脈動を始めるのは、終わりまであと七ページという段になってから。すなわち、修士論文が「デッドライン」を過ぎてからである。

 

     ◆

 

この作品が「小説」としていかがなものかと僕が思うのは、この作品に「小説」としての振る舞いのようなものが見えないからであろう。

この「小説」は、氏の(源を探せばドゥルーズの、ということになろうが)「哲学」を、ある物語の中で実践させてみたものに過ぎない。

しかし本来、「小説」とは「哲学」の実践ではない。

もちろん、「小説」に思想的強度があるというのは、歓迎すべき種のことだろう。しかしそれだけではない。漱石がF+fと表現したのもその類だろう。漱石は、〈F:焦点的印象又は観念〉に、〈f:情緒〉を付加せよと言ったのである。いわばここにおける「情緒」のようなものが見られない。

「小説」は「語る」という振る舞いそのものに魅力があるジャンルである。そこに「情緒」が見られたりする。そう考えたとき、果たしてこの作品において「焦点」を当てて描かれるべき出来事というのが何なのか見えない。日記のような随筆が並んでいるだけであり、何か焦点を絞るような「構想」が見えないのである。

#6 村田沙耶香「星が吸う水」

あらすじ

恋愛ではない場所で、この飢餓感を冷静に処理することができたらいいのに。「本当のセックス」ができない結真と彼氏と別れられない美紀子。二人は「性行為じゃない肉体関係」を求めていた。誰でもいいから体温を咥えたいって気持ちは、恋じゃない。言葉の意味を、一度だけ崩壊させてみたい。

『星が吸う水』(村田 沙耶香):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部

鈍く抉る

僕たちが無意識に抱く「常識」のようなものに対して、そこをブスリと突き刺す殺傷力が村田沙耶香の持ち味なのだとすれば、「星が吸う水」にそれは感じ取られない。むしろ、切れ味抜群の刀剣か何かで四肢を切断されて、その切れ味故に切断されたことにさえ気が付かない、といった様子か。

主人公は鶴子と言う。ピルを飲んでいるために禁煙を余儀なくされており、そのために禁煙パイポをやたらに咥えている。しかし結構序盤に、このように書かれる。

 鶴子は自分が勃起しているのを感じた。しゃがんで向かい合っていた鶴子は、立ち上がり、武人の腕を引っ張りあげた。腕を握ったまま廊下を進み始めた鶴子に転ばされそうになり、急いで立ち上がった武人は足首を振って、スニーカーを玄関に放った。転がっていくオレンジのスニーカーを横目で見ながら鶴子はさらに力をこめて、武人の雨に濡れた腕に指を食い込ませた。

鶴子は女性であるはずだが、それが「勃起」と言うので、少し素っ頓狂な表情をしてしまいそうなところであるが、ここで鶴子が捉えた武人とは、性的関係を持つ相手である。ただし、「付き合っている」というような恋愛感情のようなものは感じ取られなくて、ただドライな分析がなされる。

鶴子の言う「勃起」というのが、(おそらく)クリトリスのことを示すのではないかと思われるが、そのことは明示されず、まるでペニスであるかのように描かれる。ペニスとクリトリスに差異はなく、同じように「勃起」すると描かれるのだ。

「自分が女だということが、だんだんと遠ざかっていく。」と語る鶴子である。鶴子はセックスにおいて、「女性」としてではなく、「動物」として、いる。

鶴子は仕事を辞めて三か月ほど、定職にもつかずに過ごしている。さながら「モラトリアム」といった具合か。ただし、法的に何かが猶予されるわけではない。自分が、自分に課すことを猶予するという意味において「モラトリアム」である。

そんなうだつの上がらない暮らしをする鶴子に、友人である梓は説教する。

「女は、自分をいかに高く売るかってことを考えないとだめなんだよ。対等なんて甘いと思う。女であることを利用しないと、こっちが利用されて終わるんだよ。絶対的に立場が弱いんだから。戦わなきゃだめだよ。安く見られるなんて、絶対にだめなんだから」

梓のものの見方は、きわめて「一般的」だろう。

しかしそれにドライな見方を突きつける鶴子は、この視点の弱点を見透かしているようでもある。

すなわち、「女は本質的に〈弱い〉」ので、「〈強く〉あろうとせねばならない」もしくは、「男を出し抜かねばならない」と考えることは、「女は本質的に〈弱い〉」という事実を固定させるばかりで、それを覆す力にはならないのだ。

ここで〈父〉的に、つまりパターナリズム全開で鶴子を説教する梓も、また例外ではない。梓の発想では、いかなる現状も変革されはしない。

しかしもちろん、鶴子の発想も、現状を変革させるわけではないのだが──そこで鶴子は梓に次のような感想を向ける。

 梓にとって、結婚は一世一代の人身売買なんだろうな、と鶴子は思う。なので商品としての自分に傷がつかないよう、いつも努力しているし、なるべく高く売ってちゃんと未来まで相手に尊重されようと、今からしっかり土台を造ろうとしている。鶴子は、そういう梓がとても息苦しそうに見えるときがある。背中を撫でて、大丈夫だよ、もっと適当でいいよ、と言いたいが、その発言に本当に責任が持てるのかといえば、鶴子にはよくわからなかった。

梓はまるで結婚を「一世一代の人身売買」と考えていると分析するわけである。そう、梓は、自分が「買われる」という受け身の対象=目的語にしかなり得ないということをよく承知しており、それならば、よりよい待遇を得ようというのである。

だとすればこれと相対するのは、自らを「買う」という為手=主語に押し上げようという働きだが、それは少なくとも本作には見えない(『コンビニ人間』にはある)。

ただ、鶴子には「自らが商品である」というのが納得できないのである。いや、より本質に添った言い方をすれば、「理解できない」のだ。

…性器が穴状だと、いくら能動的に行動していても、受身だと思われてしまうのかもしれない。それが鶴子には不満だった。

鶴子が不満を抱くのも無理はない。なぜなら、鶴子自身にとって性器とは穴状で想像されるのではない。それはあくまで勃起したクリトリスの姿で想像されるのであり、男性のペニスを自らの膣に挿入することさえ、そのクリトリスに刺激を与える手段に過ぎない。

鶴子がそのように、梓の発想に違和感を持ちうるのは、鶴子が「あたしの性指向はまだ作り途中」と自認するところとも繋がる。つまり、鶴子には「自分は商品だ」と言うような固定観念が完成する以前の、まだ流動的な漠然とした何かがあるに過ぎない。それが完成するまでのモラトリアムの中に、まだ鶴子はいるのである。

その相対が、「地球とセックスする」という怪しげなWEBサイトに対する反応である。

「開発? そんなもん、入れるか入れられるかでしょ。とにかく、男性器か、女性器かもわかってないのに、間抜けだって言ってんの」

「どちらでもないんじゃない? ペニスの形でもヴァギナの形でもない、地球オリジナルの性器なんじゃない?」

梓は、「セックスする」と聞くと、そこに入れる〈主体〉の男性器か、入れられる〈客体〉の女性器かのどちらかしか想像できない。彼女の発想はすでに「固定」してしまっているからである。

しかしまだ「固定」しておらず、「流動」する発想しか持ちえない鶴子は、そうでもない「地球オリジナルの性器」という発想に達することができるのである。

物語はいかに終わるか。

鶴子・梓、そして無性愛者の志保が歩いている最中に、鶴子が「立ちションしよう」と実際にやって見せるところで終わる。

二人は(特に梓は)「できない」と言うが、鶴子が「できる」と言い張り、やって見せる。ここにもきれいな相対が見える。鶴子にはそうした固定観念が無い。これはフレキシブルな発想ができると褒めていいのかもしれないが、一歩間違えれば常識が無いだけの変態だろう。

そもそも「常識」とは、共同体の中で分有されることで秩序を維持するための最低限のルールである。それを持たないというのは、共同体にとって有益な、フレキシブルな発想を提示する可能性もあるが、共同体を危機に陥れる恐れの方が大きいだろう。

村田沙耶香は、その恐れを引き受けており、常にそのように「変態」を描く。

その時しばしば「固定」した職業に就かず、モラトリアムであるのも、その流動的な発想を流動的なままに、乾燥させないためであると言えるだろう。

その点で、本作はやはり「村田沙耶香作品」として読まれるに値するだろう。

#5 村田沙耶香「ギンイロノウタ」

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あらすじ

極端に臆病な幼い有里の初恋の相手は、文房具屋で買った銀のステッキだった。アニメの魔法使いみたいに杖をひと振り、押入れの暗闇に銀の星がきらめき、無数の目玉が少女を秘密の快楽へ誘う。クラスメイトにステッキが汚され、有里が憎しみの化け物と化すまでは……。

村田沙耶香 『ギンイロノウタ』 | 新潮社

疑似的にセックスしつづけること

一人称小説であるが、その語り手である「私」=有里は言葉を上手に操ることができない。

 言語を手に入れてからも、私はその卑屈な産声と同じような喋り方で声を出し続けた。かぼそく、よく途切れる私の声は、聞いている人間を苛々させた。

「内気」と評される有里は、対外的に言語を語りえない。彼女の「話す言語」は収奪されていると言えるだろう。そんな彼女は、自宅の押し入れの中に自分だけの世界を見つける。自分だけが存在する世界である。

その押し入れの天井には様々な雑誌などから切り抜いてきた目が貼られており、文房具店で手に入れた銀色のステッキ(教員が用いるような鉄製の指し棒)で自慰をする。

 ペニスはあったかい肉片で、私の穴はそれを吸い込むだろう。私はその柔らかい塊を、膣で舐め、吸い付き、いつまでも味わい続けるのだ。

(肉体を、咀嚼したい……、咀嚼したい……)

 そう思って激しく腿を締め上げていると、私は簡単に達してしまった。

彼女はその自慰で、いつかペニスを自らの体に受け止めることを妄想し続ける。そのステッキを疑似的にペニスに見立てて、自慰をするのである。

しかし、そうした有里の内気の性格を許さないのが、中学校教師の赤津だった。

「お前、人見知りなんて言葉に甘えていたら、ろくな大人にならないぞ。自分の殻に閉じこもってちゃだめだ、外に出ないと! それじゃいつまでたってもクラスに溶け込めないぞ」

赤津は、そうして有里にクラス内でのスピーチを強いるが、うまくいかない。喋れないのである。それもそのはず、有里の言語は収奪されているのだから。

そんなスピーチの最中(と言っても言葉を発することはできず、ただ沈黙して教室の正面に立ち尽くすだけなのだが)、彼女は銀色のステッキを失ってしまう。

(入ってくる。外の世界が私に入ってくる。塞がなくては。塞がなくては)

 私は押し入れを開け、小学校のころ使っていた縄跳びの縄を取り出した。首にそれを巻き、両手で端を強く引っ張った。

 息が苦しくなってくると、だんだんと内臓の痛みがやわらいでいくような気がした。

(……塞がなくては。完全に塞がなくては……)

銀色のステッキは、彼女を一人きりの世界に誘う〈鍵〉なのであり、彼女を一人きりに閉じ込めてしまう〈鍵〉でもあった。しかしそれを失った今、彼女は自ら窒息しようとすることで、自らの中へと閉じこもろうとしている。

ステッキを失った有里は、それから、赤津を殺す妄想をすることでその代わりとする。

『6月3日

 私は赤津を、人気のないところで、いっぱい刺す。そうしたら、どんなに、気持ちがいいだろう。』

ここで、有里が銀色のステッキをペニスに見立て、疑似的に行っていたセックスが、銀色のステッキを失ったとともに、別のものに置き換えられていることに気が付くだろう。

彼女が日記に人知れずしたためる赤津の殺害計画は、いつもきまってナイフを用いる。フロイトによれば、ナイフとは男性器の象徴なのであって、そのことを考えてみれば、彼女がペニスを挿入されることによってセックスを行うのではなく、ペニスを挿入することによってセックスを行おうとしていることに気が付くだろう。すなわち、受け入れる立場から、指し込む立場への転位である。

その際注目すべきは次の箇所である。

 ノートを後で読み返して不思議なのは、妄想の中で、赤津を殺しても殺しても生き返ってくるような不安にかられているらしいことだった。

だからこそ、彼女はノートの中で赤津を殺し続けるのである。

例えば中国語で「殺す」と言うときには、その動作によって「生きている」という状態が変化したことを示す「了」を付し、「殺了」としなくてはならない。

しかしこのとき有里は殺そうとしても殺せないのであって、永遠に「殺了」にはたどりつかず、殺し続ける必要があるのである。

そんな彼女は、中学校を卒業し、高校生になり、ふとしたことでコンビニのバイトを始める。村田沙耶香が後に『コンビニ人間』で著すことになるイメージの端緒がここにあると言えるだろう。

彼女はそのコンビニで同僚から話しかけられる。

 事務所に残された私は、自分の乾いた唇を摑んで立ちすくんでいた。喋る、ということが何なのか、よくわからなかったのだ。小さいころを思い返してみても、私の口はずっと言い訳をするための器官で、何かを喋ったことなどない気がした。

彼女の言語は、依然収奪されたままであり、言い訳以外を口にすることができない。

そのコンビニで、彼女は赤津が不慮の交通事故によって死んだことを知る。

先ほどの通り、彼女は赤津を殺し続けていたのであるが、皮肉なことに、それが彼女にとっての精神安定剤であった。銀色のステッキによる自慰=疑似的なセックスが、赤津を殺し続けること=疑似的なセックスへと転成したのであるが、それが突如終了してしまった。殺すべき赤津は、本当に死んでしまったのだ。

 自分の手が勃起しているのがわかった。生き物になった手には、刺激を食べさせなくてはならないのだ。そしてそれは紙をちぎるような感触ではだめなのだ。

セックスできなくなった有里が欲求不満から勃起するようになるのは、当然のなりゆきと言って良い。そして、それを抑えることができないのである。

さて、ここまでで二つの事柄を、平行する形で話してきた。

すなわち、彼女にとって言語が収奪されているのだという問題と、彼女は疑似的にセックスを重ねてきたのだということだ。しかしそれは無関係ではない。

 そしてそのとき、私はわかるだろう。なぜ私は膣にペニスをいれることができなかったか。なぜ私は言語というもので人と絡み合うことができなかったか。私が選ばれた人間だからだ。私はたった一つの尊い手段を与えられていて、迷わずにここにたどりつくために、他の道は全て封鎖されたのだ。』

普通の人々にとって、すなわち言語を収奪されていない人々にとって、言語を交換するというコミュニケーションは普通に存在するのだが、それが彼女にとって存在しない。そしてそれは、彼女にとって性的なものの欠如とつながっていた。

だからこそ彼女は自慰にふける。ある時は銀色のステッキを自らに差し込むことで、ある時はナイフを男に刺す様を想像することで。

最後に、有里の中にはステッキの歌声が聞こえてくる。村田沙耶香らしからぬ、極めて抽象的な叙述である。有里には最後、「外の世界が私を呼んでい」るという感覚がある。しかし、その外が、果たして私たちの世界であるのか、あるいは彼女の内面であるのか示されない。

はっきり言って、この作品がこれまでの作品、そしてこれからの秀作に比して優れているとはいいがたい。しかし、村田沙耶香がセックスというモチーフを寓意を込めて描くことを考えるときに、欠かせない一作である。

第三項理論批判序説(1):田中実「断想」を読む

はじめに

田中実氏が提唱する「第三項理論」は、主に日本文学協会を中心に国文学界隈を席巻した。もちろん、ここにおける一種の「ブーム」が、権力闘争の中におけるある人工的なものであるという話はある。

しかしながら、国文学という「歴史ある」学問において新たな理論が提唱されたことは注目に値するし、検討の必要があるだろう。

とは言いつつ、「第三項理論」に対する批判の多くも「その内容はよく分からないが」のような枕詞を冠することが多い。その難解な理論は、根本的に理解しがたい。そこでここでは、「第三項理論」に関わる論文や論考を緻密に、かつ批判的に読むことで、自分なりの「第三項理論」理解を行いたい。

それがどこかの〈他者〉に貢献すれば幸いである。

「断想」(『日本文学』第50巻第8号、日本文学協会)

この論考において、まず理解すべきは、次の箇所であろう。

 バルトが提起した〈本文〉の「還元不可能な複数性」、この極限のアナーキーな概念の場に立ち会うと、必ずしも「単なる物質の断片」に化してはいない。主体と客体の相関で捉えられない第三項〈原文〉を仮設してみると、その影(=プレ〈本文〉と呼んでいる)が〈本文〉のなかに働いているのが証明できるからである。すなわち、〈本文〉は実体そのものでも、アナーキーなものでもなかった。到達不可能な《他者》である。とすると、文学の〈いのち〉は死んでいない。逆に、情報社会にこそ広く心の闇は深まり、〈文学〉の力が要請されていたのである。

さて、すでに難解な文章が立ち現れている。

まず、「バルトが提起した〈本文〉の「還元不可能な複数性」」について考えよう。

田中氏が別の論文において、「素材としてある教材が〈作品〉となるには個々の〈読者〉の生産によって〈個々別々〉の〈作品〉が創出される」*1としているところから敷衍するに、「バルトが提起した〈本文〉の「還元不可能な複数性」と捉えて構わないのではないか。

とすると、「この極限のアナーキーな概念の場」とは、一つの〈読み〉へと収斂しえない〈読む〉という行為の無秩序性を示した言葉であると解釈してよかろう。

ただし、「必ずしも「単なる物質の断片」に化してはいない」というあたりが理解できない。

というのも、バルトが依拠した記号論の根本原理、すなわちすべての記号がシニフィエシニフィアンの組み合わせによるのだとすれば、本来〈読む〉ことで現前に立ち現れる〈本文〉とはその結合のあるパターンに過ぎず、その前にあるのは「物質の断片」ではないか。

実際田中氏本人も「「テクスト」はアナーキー(〈神〉の不在=「物質の断片」)」と記しているのである。

そこでここを一応留保しつつ、先を読む。しかしそこでやはり理解できないのは「主体と客体の相関で捉えられない第三項〈原文〉を仮設してみると」箇所である。つまり、〈読む〉主体でもなく、〈読まれる〉客体でもなく、〈原文〉なるものが存在しているというのだ。そして、その〈原文〉なるものの影=プレ〈本文〉が〈本文〉のなかに観察できるという。

ここにおける〈本文〉とは、「物質の断片」であるテクストを〈読む〉ことによって読者の精神・思考に取り込み、その中へ複写され、その中で構成されたテクストと捉えれば良いだろう。

「すなわち」という接続詞が恨めしくなるが、〈本文〉が実態そのものでも、アナーキーなものでもないというのは、全く理解できない。ただしその後の「到達不可能な《他者》」という部分は理解できる。

というのも、田中氏の根本的な他者観はそれほど難しくないのである。

田中氏によれば、〈他者〉なるものが存在するとして、〈わたし〉が〈他者〉を理解したとき、それは〈他者〉を〈わたし〉の内部に取り込んだに過ぎないという。これを田中氏は〈わたしのなかの他者〉と呼ぶ。一方、それすら及ばない、つまり理解不可能な《他者》が存在し、それを「到達不可能な《他者》」と呼ぶのである。

すなわち、各個人がテクストを〈読み〉、そのことで各自の内部に〈本文〉が存在するとすると、その〈本文〉同士は理解しえない「到達不可能な《他者》」に達すると言う。

しかしそれがこの情報社会に要請されるか否かについては、とても判断を下せない。

すなわちこの論考の内容をまとめればこうである。

読者が〈読む〉行為を通じて内部に生成する〈本文〉には、(それが何かは分からないが)〈読む〉主体とも〈読まれる〉客体とも違う第三項=〈原文〉が存在し、その〈原文〉の影=プレ〈本文〉が〈本文〉に働きかけている。

「断想(Ⅱ)」(『日本文学』第52巻第1号、日本文学協会)

次の「断想(Ⅱ)」は、2ページほどの短い文章であり、こちらには「第三項」をめぐる動向は観察されない。そのポイントは「物語」と「小説」の違いを指摘し、「小説」を評価するところにあると言えるだろう。

田中氏はこの中で「〈語り手〉が物語る形式に拘束されながら、それをふり切る困難と葛藤に「小説」の独自性がある」としている。

〔前略〕いっこく堂の難問は複数の人間を一人で生きる絶対的不可能性、《他者》の顕現にあり、これが主人公主義の「物語」とそこに介入する〈語り手〉の自己表出によって成立する「小説」を分かつ。「物語」では容易に異空間でも相手のなかでも滑り込めるが、「小説」は〈物語の力〉と背き合う《他者》という壁がもう一方に要請されて、近代のアポリアと向き合っているのである。

いっこく堂」がここに導入されているのは、田中氏が〈語り手〉をいっこく堂に導入したからということであるが、「小説」における《他者》の顕現はその通り難問として突きつけられる。

この文章だけを読めば、田中氏にとって「小説」とは、「物語」と違って、理解しえない《他者》が顕現するというアポリアを伴うものだということになる。

実はこの直前で、かつて自らが「小説」を「物語+〈語り手〉の自己表出」としており、それに「〈語り手〉が物語る形式に拘束されながら、それをふり切る困難と葛藤に「小説」の独自性がある」と解説を加えていることからも、このあたりははっきりしているだろう。

ただし、ここが理解できたと思っても、終盤が全く理解できない。

〔前略〕「物語」と化した「小説」から「小説」そのものを奪回再生するには、「物語」との間に際立った対比を示すような〈小説の読み方〉が要請される。これが肝要、日本の近代「小説」は近代宗教や哲学の役割を大きく肩代わりしてきたのであるから。

さて、はたしてそうであろうか。そもそも「物語+〈語り手〉の自己表出」を小説の定義とするならば、「小説」と「物語」の差異とは、「〈語り手〉の自己表出」であるということになる。その差異を対比させるために要請されるのが〈小説の読み方〉とは不思議な話である。

また近代「小説」が近代宗教や哲学の役割を肩代わりしてきたのだという氏の指摘も、何ら具体的例や引用を伴うものでなく、理解しがたいものがある。

「断想Ⅲ」(『日本文学』第55巻第8号、日本文学協会)

この「断想Ⅲ」では、過去の2つの記事で解消されなかった疑問、すなわち「つまり第三項とは何なのか」ということと、「「物語」と「小説」の違いは何なのか」ということに一定の説明がなされる。

 文学作品の文章を「読むこと」、解釈する行為に関する筆者の結論はこうである。客体の文章そのものは決して捉えられない。だが、この捉えられない対象を内包して初めて「読むこと」が作動する。つまり、読み手が捉える対象には常に読み手の主体に捉えられない客体そのもの、すなわち了解不能の《他者》が働いている。これを、もし〈神〉と呼びたいなら読んでもよいだろう。筆者は第三項、〈原文〉と呼んでいて、その影が〈本文〉=〈わたしのなかの他者・文脈〉に働いていると考えている。したがって決してこれは「真」には至らない。捉えた対象は客体そのものではない。だが、客体そのもの、了解不能の《他者》の力が読み手に何らかのかたちで〈実体性〉として働いていて、これがバルトの拒否したはずの文学の「生命」である。文学における「読むこと」は「真」にはなく「善・美」のカテゴリーにある。〔後略〕

ここまで引用すれば、かなり今までの疑問はクリアになるはずである。

まず、ソシュール以来の記号論的解釈、すなわちシニフィアン(記号)にシニフィエ(音)が恣意的に結合されることで初めて意味を持つという解釈に立って、シニフィアン=「物質の断片」(あるいは紙のインクの染み)にシニフィエ=「読む」ことが重ね合わせられて、初めて〈本文〉が存在するようになる。

従って、それは物質的に存在するものではないし、「物質の断片」(あるいは紙のインクの染み)を捉えたと言えるものではない。つまり「物質の断片」は、理解することが不可能である「了解不能の《他者》」を孕む。これを〈神〉と呼ぶのは少し滑稽にすぎる感があるので、田中氏に倣って第三項〈原文〉としよう。

ここまでは理解できるはずである。しかしながら、その次が問題だ。

その影が〈本文〉=〈わたしのなかの他者・文脈〉に働いていると考えている。 

 〈本文〉は先ほど確認した通り、「物質の断片」を「読む」ことで読者の内部に現前するものである。だから、読者〈わたし〉に取り込まれたという点で〈わたしのなかの他者〉と言えるだろうし、それが読者の環境に左右される点で〈文脈〉とされてもおかしくない。

しかし、第三項〈原文〉が〈本文〉に働いているとはどういうことか。それが明示されないまま、次へと向かう。

捉えた対象は客体そのものではない。だが、客体そのもの、了解不能の《他者》の力が読み手に何らかのかたちで〈実体性〉として働いていて、これがバルトの拒否したはずの文学の「生命」である。

さて、シニフィアンとしての「物質の断片」=〈原文〉が存在し、それ自体が「理解」されることなどないというのは、漠然と理解できる。しかし、それが何らかのかたちで〈実体性〉として〈本文〉に作用するとはどういうことか。

「何らかのかたちで」とはどういうかたちなのか、まず示すべきであろうし、そうしない限りはこれは「感覚」や「信仰」ということになる。

また、〈原文〉を第三項としたのは、それが〈読む〉主体でも〈読まれる〉客体でもない第三項に存在するからであるはずだが、ここまでの理解が正しければ、〈原文〉とはむしろ〈読まれる〉客体に内在される理解不可能な部分、あるいは客体そのものとして解釈されるべきではないのか。

ちなみに「断想(Ⅱ)」で「物語」と「小説」を漠然と分別した点については、次のように記述される。

〔前略:太宰治走れメロス」を例に〕メロスの心理を筋あるいはストーリー(すなわち一時ダメだったけど後で頑張ってよかった)に解消するのではなく、倫理的空間、生の場としてこれを読みの批評の対象にすることが近代小説という独自の領域の存在意義、レーゾンデートルの一つである。〔後略〕

これが明白な答えであるように思うが、そう頭では分かっていても、どうも腑に落ちない。近代小説の存在意義が、登場人物の行動が「良かったのか悪かったのか」などという問題としてとらえられるのは、文学作品の矮小化としか思えないし、文学作品を道徳教材的に活用したいのであれば、そもそも訓育的文章を別に書けばよいのであって、物語の形を取る必要などないからである。

「断想Ⅳ」(『日本文学』第57巻第3号、日本文学協会)

さて、この一連の「断想」シリーズの終わりが、2008年のこの論考である。副題に「第三項という根拠」とあることからも、ある程度市民権を得始めてきた第三項理論を改めてプッシュする内容になっている。

〔前略〕「読むこと」はまず〈わたしのなかの現象〉であり、対象を読むことが自己を読むことになるという反転行為の一元論に立つのだが、そこには原理的に虚偽が潜むことを共通認識とする必要がある。文学教材で思考力を付け、表現力を付けるとはこの反転行為の言語化の過程で磨かれること、「自己倒壊」を続けていくことであり、自己教育を必要としているのである。特に近代小説を読むには、そのメカニズムの外部、了解不能の《他者》(第三項、うなぎ、トトロ、星の王子さま)を要請する。〔後略〕

ここにおいて注目すべきは3点である。

第一に、「読むこと」を〈わたしのなかの現象〉としたのは、田中氏の言葉を使えば「物質の断片」(シニフィアン)を「読むこと」(意味(=シニフィエ)づけること)によって〈本文〉が生成される一連の流れは〈わたしのなか〉で完結しているのだから、〈わたしのなかの現象〉と呼んで間違いないだろう。

第二に、そこにおいて「読む」行為が、自らを(厳密には自らを取り巻くコンテクストを)表面化させる点で、「自己を読むこと」につながることも理解できる。そしておそらく田中氏は、そのことを「自己倒壊」と名付けている。

第三に、これは理解できない点であるが、そのためには「了解不能の《他者》」が必要であるという。

 文学作品の文章を読む場合、第三項を布置するとは叙述のすべてを〈語り─語られる〉現象とすることにほかならない。その際、作中での実体の〈語り手〉と語られた人物を読むだけでなく、語っている語り手をさらに相対化して〈機能としての語り〉を読み取り、これを内的構造化するのであるが、そこに「第三項」を想定することが急所である。ここに起こる内なる葛藤の過程が〈自己倒壊〉をもたらすこと自体の囲い込み、対象化が可能となる。批評もまたそこに誕生する。

まず、「断想Ⅲ」までに確認してきたように、当初、第三項=〈原文〉とは、〈読む〉主体と〈読まれる〉客体の二者関係に属さず、客体の中においても〈読まれる〉=〈理解される〉ことのない「了解不能の《他者》」を指していたはずである。

とすれば、第三項は布置するまでもなく存在するのであり(そしてそのこと自体は漠然と信じられるが)、「叙述の全てを〈語り─語られる〉現象とすること」などできるはずがない。また、〈語り─語られる〉現象を、読者が読み取ることができる限り(理解することができる限り)、それは第三項とは言えないのではないか。

もちろん、語り手を相対化し研究・考察する必要性というのはある。しかし、そこに「第三項」が入り込んでくるのはなぜなのか。

また、最後から2文目は酷い悪文であると言って差し支えなかろう。

「ここに起こる内なる葛藤の過程が〈自己倒壊〉をもたらすこと自体の囲い込み、対象化が可能となる。」という文章の主語はいったい何か。ガ格が2つ登場する上に、そのどちらとも主語とは思えない。

おわりに

まず今回田中実氏の「断想」とつく一連の論考から分かったのは以下のことである。

  1. シニフィアンとしての物質の断片を「読む」=意味(シニフィエ)づけると、個人の中に〈本文〉が生成される。
  2. 〈本文〉生成に関わらず、読まれえない「了解不能な《他者》」なるものがテクストには存在し、それを〈原文〉と呼ぶ。
  3. 〈原文〉はプレ〈本文〉として何らかのかたちで作用している。

それに対して、理解できなかったのは次のことである。

  1. テクストに存在する「了解不能な《他者》」とは何か。
  2. プレ〈本文〉は〈本文〉にどのようなかたちで作用しているのか。
  3. 第三項が叙述の全てを〈語り─語られる〉現象とするとはどういうことか。
  4. 〈自己倒壊〉とは具体的にはどういうことか。

それについては、次回以降、別の論文・論考を読むことで解決していきたい。

*1:田中実「他者へ」『日本文学』第37巻第7号、日本文学協会

#4 村田沙耶香『マウス』

あらすじ

 私は内気な女子です――無言でそう訴えながら新しい教室へ入っていく。早く同じような風貌の「大人しい」友だちを見つけなくては。小学五年の律(りつ)は目立たないことで居場所を守ってきた。しかしクラス替えで一緒になったのは友人もいず協調性もない「浮いた」存在の塚本瀬里奈。彼女が臆病な律を変えていく。

小学校の頃から、女子はたいへん。思春期、教室に渦巻いていた感情をもう一度。

「学校という場所は、スーパーに似ている。私たちは陳列されているのだ。そしてそれを評価するのは、教師じゃなくて、子どもたち。これも学校の勉強のひとつなんだよ、お母さん」

『マウス』(村田 沙耶香):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部

脱胎するメトニミー

タイトルが『マウス』であるから、どういうことだろうと思ってみるが、別に中にねずみが出てきてどうこうということではない。

主人公は田中律という少女であり、彼女が小学五年生になったところから物語が始まる。

クラス替えで友達がいない不安感、友達を見つけてつるむ。さらにスクールカースト下位のクラスメイトを見つけて安堵する。例えば朝井リョウが『桐島、部活やめるってよ』で描いたような残酷な教室内の階級が、小学校であっても厳然と存在する。

クラスメイトの塚本瀬里奈は、些細なことで泣いてしまうような少女で、他のクラスメイトからも迷惑がられていた。田中律は、泣き出すとどこかへ消える塚本瀬里奈に興味を抱き、後をつける。

 私の頭に、小さいころ読んだ、「くるみ割り人形」の絵本で、マリーが洋服箪笥の中から異世界へ旅立つシーンが浮かんだ。まさか、塚本瀬里奈はこのドアからどこか遠くへ行ってしまったのではないだろうか。

僕はこの記事を準備するのに合わせて、E.T.A.ホフマンの『クルミわりとネズミの王さま』についての記事を書いた。

bungaku-an.hatenablog.com

僕がこの中で書いたのは『クルミわりとネズミの王さま』の魅力とは、それが現実とも幻想(妄想)ともつかず、その両者をつなぎとめる〈曖昧な合間〉が存在することによって発揮されるのではないかということだ。

中でマリーは夜な夜な異世界へと旅立つ。常識的に考えてそれは、少女の儚い妄想に過ぎない。しかしそれが「妄想」と言い切れないこと、もしかするとそれは現実に存在したのかもしれないと思わせられるのが文学の力であり、この作品の魅力でもある。

塚本瀬里奈を見つけた田中律が尋ねると、塚本瀬里奈は泣くたびに「灰色の部屋」に自分がいることを夢想するという。

「私、ドアを閉めて……部屋の中央に裸足で歩いていきます。床はひんやりと冷たい。壁も、床も、天井も、灰色で、どこにも電気も窓もついてなくて、爪先がぼやけて見えるくらい薄暗い。

 中央にきたら、私はお尻をつけて座ります。天井を見上げると、壁と壁の隙間から、光のすじがいっぱい入り込んできていて……すじの先は、私のところまで届く前に、部屋の中の薄暗さに、溶けて消えてしまっています。空気は暖かくも、寒くもなくて、でも、どこからかぬるい風が入り込んできて、前髪が、ふわふわ、上下に揺れます。なんだか頭を撫でられているみたいて……私、目を閉じます」

彼女は、感情が〈外〉に向けて出ようとする=涙が出るたびに、むしろ〈内〉に閉じこもろうとしている。その〈内〉が「灰色の部屋」であると考えて良いだろう。灰色は、コンクリートの色を思わせる。全く無機質で、感情的ではない閉鎖的な空間である。

そんな塚本瀬里奈に、田中律は「くるみ割り人形」を読ませることにする。

「世の中には、もっと綺麗で楽しいものがいっぱいあるんだよ。灰色の部屋なんて、つまらないところに閉じこもってる人、塚本さんだけだよ。塚本さんは、まだ世の中を知らないんだ。私が教えてあげるよ」

「私が教えてあげるよ」というのは、善意のお節介ではない。

田中律は、過酷なスクールカーストの世界にいる。懸命に努力している。しかし塚本瀬里奈は、好き勝手に泣いたかと思うと〈内〉に閉じこもる。その彼女の「まるで手を抜いているような感じ」にイライラしたと言ったほうが正確だろう。つまり田中律は塚本瀬里奈に「お前も〈外〉に出て戦え」と言っているのである。

実際、塚本瀬里奈は「くるみ割り人形」を読んで、劇的にその性格を変える。「灰色の部屋」が「くるみ割り人形」に染め上げられた新しい「部屋」へと変わったわけである。

「律。私、もう、外に出ないことにする」

「えっ」

 ずっと黙っていた瀬里奈が突然喋ったので、私は驚いて背中に駆け寄った。

「私、もう、ここから出てこない。そしたらまた今日みたいなことがあっても大丈夫だもの。最初から、こうすればよかったんだ」

〈外〉へ出ろ、と命ずる田中律の思いも空しく、塚本瀬里奈は〈内〉に閉じこもることを決意する。塚本瀬里奈は〈内〉において「くるみ割り人形」の主人公マリーよろしく、そこで異世界に暮らそうと言うのだ。

「気のせいなんじゃないのかな。だいたい、瀬里奈がなりきってる『マリー』って、あの本のマリーとは全然違っちゃってるし……もう、その本を読まなくても、瀬里奈はいまのままなんじゃないのかなあ」

塚本瀬里奈はマリーになろうとしている。しかしそのマリーとは、もはや元のマリーではない。いわば「くるみ割り人形」に登場するマリーを脱胎して、そこに塚本瀬里奈の自我を代入していると言えるだろう。

しかし、自我を代入する先を求めているのは、何も塚本瀬里奈だけではない。オリジナルとして存立することを諦め、〈内〉と〈外〉に明確な〈壁〉を仮構することを志すのは、田中律も同じである。

田中律は大学生になって、ファミリーレストランで働いている。

 私はもう一度鏡をのぞいた。そこには、「田中律」ではなく、一人のしっかりと身なりを整えた「店員」がいた。

後に村田沙耶香はこのモチーフを『コンビニ人間』などで発展させる。すなわち、自らの「あるべき姿」を「社会的通念」や、より単純な「マニュアル」のようなものによって規定しようとしている。〈外〉で戦うことを諦め、〈壁〉に合わせて〈内〉にとどまろうとする志向だと考えて良い。

塚本瀬里奈が「くるみ割り人形」のマリーに自我を代入するように、田中律は「店員」に自我を代入する。両者ともに、その際何かを「脱胎」している。つまり、何かを骨抜きにしているのである。

塚本瀬里奈は、「くるみ割り人形」オリジナルのマリーを脱胎し、田中律は自分自身を脱胎し「店員」になる。

この違い、すなわち脱胎する対象の違いは、次のような違いを生み出す。

くるみ割り人形」などなくても、瀬里奈は大丈夫なのだ。自分を偽って、他人に合わせようとする才能がまったくないのだ。そのことでいくら摩擦を起こしても、いずれはありのまま受け入れてもらえるのだ。小学校のころだって、きっと、あのまま泣きじゃくって嫌われていたって、いずれは、そのままの瀬里奈を面白がってくれる人を見つけることができたのだ。

塚本瀬里奈は、実はマリーになるために自我を変形しているように見えて、変形していない。マリーの方を変形し、自分に合わせている。それはさながら「服」のようなものである。

一方、田中律は「服」などのように脱胎を行っているわけではない。奇しくも彼女が勇気を出して買ったワンピースが、彼女には似合わないものであったように、彼女は自分自身を決められた「服」に合うように変形させている。

さて、こうした脱胎からの卒業。すなわち「ありのままの自分」のようなものを受け入れることで物語が完成する。そういう安直なハッピーエンドを、村田沙耶香は許してくれない。

タイトルに戻ろう。田中律は、自らを「マウス」だと考える。それは「マウス」に「臆病者」という意味があるからである。しかしそれだけではないことが、物語の終盤に明らかにされる。

 私は手を振って蓮井さんと別れた。階段の側の自動販売機で温かいお茶を買いながら、私は小学校のとき、路線図を握り締めて、大人用の大きな辞書で「マウス」の意味を調べたときのことを思い出していた。

(mouse。ハツカネズミ、小ネズミ……臆病者。内気な女の子……それと、かわいい子、魅力ある女の子)

田中律は勇気を出して買った似合わないワンピースをきっかけに仲を深めた蓮井に「自分はマウスに似ている」と話した後に、こう思い出す。

田中律は、決して脱胎から卒業したのではない。むしろこれからも脱胎し続けることを決意している。今までは「臆病者」という意味で「マウス」を換喩的に自分だと思ってきたかもしれない。しかしこれからは「かわいい子」を換喩的に自分だと思っていくのだろう。

これからも田中律の自我を脱胎した換喩=代入は続いていく。ハッピーエンドのように装われたこの物語は、決してそれが終わらないことを示しており、実はその点において残酷である。

#3 E.T.A.ホフマン『クルミわりとネズミの王さま』

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あらすじ

クリスマス・イヴの日,マリーはドロッセルマイヤーおじさんからのプレゼントの中に,クルミわりを見つけます…夢と現実が入りまじって紡ぎ出されるドイツの幻想的な物語.

クルミわりとネズミの王さま - 岩波書店

〈曖昧な合間〉と『クルミわりとネズミの王さま』

はじめに

E.T.A. ホフマンの作品の特徴について土屋邦子氏は次のように述べている。

E.T.A. ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 1776-1822)の重要な作品は、分身や変身のモチーフに代表されるように二重性と深い関わりを持っており、日常と非日常、市民と芸術家、感情と理性、意識と無意識といったに世界を対立的に際立たせながら、幻想への迷妄と現実への覚醒を主題化したものが中心をなす。

(土屋邦子「E.T.A. ホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』における二重性の超克」神戸大学ドイツ文学界『DA』第11号(2015年)、p.51)

実際、本作『クルミわりとネズミの王さま』 においても、主人公の少女マリーが、クリスマスプレゼントにクルミわりが送られたことをきっかけに広がるマリーの「幻想」と、そのマリーを囲む人々による「現実」的視点が相克する場面が多く見られる。

しかし、そうした「現実」と「幻想」という二項対立は、完全に分断されえるのだろうか。つまり、その合間に汽水域的などっちつかずの部分は存在しないだろうか。

今回は「現実」と「幻想」の間にあって両者を橋渡しする役割を担っている部分を〈曖昧な合間〉と呼び、それがどのように描かれるかを見ていきたい。

メタ的視点から見る〈曖昧な合間〉

作品の内容に入る以前に、作品の構造に関して〈曖昧な合間〉であると考えられる点が二か所ある。

第一に、作品を通して「語り手」たるドロッセルマイアーと作者E.T.A. ホフマンの関係であるが、これについては既に以下の通り指摘されている。

枠物語のなかでの「語られるドローセルマイアー」と枠物語を「語るドローセルマイアー」とが容易に通底してしまうのは、「語り手」としてのドローセルマイアーの語りの基底が物語における現実と物語における幻想との境い目にあるからであり、この境界を明瞭にさせていないためである。さらにまた、こうした「語り手ドローセルマイアー」に「奇妙なうすらわらい」を浮かべさせている作者ホフマンにとって、物語における現実と幻想との区別があいまいであること、もっとポジティヴにいえば、作者ホフマンが物語における現実と物語における幻想とをまったく等価なものとみていることに理由がある、と考える。

(矢野正俊「「くるみ割り人形」の物語 ──ホフマンとデュマ、その語りの基底について──」静岡大学静岡大学教養部研究報告 人文・社会科学篇』第28巻第2号(1993年)、p.99)

事実、ドロッセルマイアーは作中においても、クルミわりを得た後、深夜にその戦いを「目撃」し、最後にはガラス戸にぶつかって大けがを負ったマリーに対して、次のように話しかけている。

「しかしね、マリーちゃん、きみ、ほんとのことをいってごらん。」おじさまがお母さまをさえぎっていいました。「マリーちゃん、きみはこのクルミわり、かっこうがいいとはおもっていないだろ? 顔だって美しいとはいえないよね。どうして、こんなみにくいからだつきや顔がクルミわりの家系にはいりこんで、受けつがれるようになったか、もし、きみが聞きたいというのなら、はなしてあげるんだけどな。それとも、きみ、もしかしたら、ピルリパート姫と、魔女のネズミリンクスと、器用な時計師のおはなしを、もう知っているかい?」

ドロッセルマイアーから聞かされた「かたいクルミのおはなし」をきっかけに、その後マリーの「幻想」的世界が更に拡大・構築されていく。つまり、このドロッセルマイアーの発話自体が「幻想」への橋渡しとしての〈曖昧な合間〉として存立する。

この〈曖昧さ〉はその後のドロッセルマイアーの発言の揺らぎにも表れている。

「ああ、ドロッセルマイアーさん、もしあなたがほんとに生きているんだったら、わたしはピルリパート姫みたいにあなたをさげすんだりしないわ。あなたが美しい若ものでなくなったのは、わたしのためだもの!」
とたんに、ドロッセルマイアーがさけびました。
「ほい、ほい、──ばかな、たわごとだわい。」

このような描写から、「幻想と現実の境界領域でふるまってきたドローセルマイアーの〈あいまいさ〉は消滅し、かたい枠組みにはまった事実の世界から一歩も出ることはなくなってしまっている」 と言うことができる。しかしそのこと自体が〈曖昧さ〉の中にいたり、あるいはそれを否定して見せたりするという〈曖昧さ〉の中にあるとも言えるのではないだろうか。

さて、こうした〈曖昧な合間〉として「現実」と「幻想」の橋渡しをする役割を担う、それ自体〈曖昧さ〉に満ち満ちたドロッセルマイアーであるが、その職業は上級裁判所の判事であると明言される。この点、「職業は「裁判官」で「背はひくく、やせっぽち」原作のドローセルマイアーはホフマン自身の容貌・職業にほぼ一致することからも、ホフマンがドローセルマイアーにみずからを重ね合わせていたことは明らかである」 。

つまり、〈曖昧な合間〉としての役割を担うドロッセルマイアーは、それ自体が「小説」という「虚構」と「作者」という「現実」を繋ぐ橋渡しをする上に、更にそのドロッセルマイアーが作中で更に「かたいクルミのおはなし」をする枠物語の形式をとることで、「かたいクルミのおはなし」という「幻想」の中に登場するドロッセルマイアーと、『クルミわりとネズミの王様』を著したE.T.A. ホフマンとの〈曖昧な合間〉として存在していると言える。

第二に、作中に現れる風景の描写についてである。E.T.A. ホフマンとその風景の描写の関係については、既に以下の通り指摘されている。

ベルリーンを舞台とするホフマンの作品を集めてハンス・フォン・ミュラーが『十二のベルリーン物語』を編んだことからも見てとれるように、この都会は何よりもまず、彼の創作活動にとって最も重要な素材提供者のひとつであった。

(光野正幸「ふたつのベルリーン物語 ─E・T・A・ホフマンにおける都会の描写と「語り」の原理──」十九世紀ドイツ文学研究会『ドイツ近代小説の展開』(1988年)、p.275)

本作においても以下のような場面が見られる。

クルミわりは先に立って歩いていきました。うしろからついていくと、玄関ホールにおいてある古い大きな洋服だんすのまえまでいって、とまりました。マリーは、おや、とおもいました。いつもはしまってるこの洋服だんすの戸が両方ともあいていて、いちばん手前にかけてある、お父さまのキツネの毛皮の旅行用オーバーが見えていたからです。クルミわりは、洋服だんすのへりや縁飾りをつたって器用によじのぼり、お父さまのオーバーの背中にふといひもでむすびつけてある大きな房をつかみました。そして力いっぱい引っぱると、毛皮のオーバーの片方の袖から、ヒマラヤスギでできたきゃしゃなはしごがするとおりてきました。

この後マリーは、「氷砂糖の牧場」「アーモンド・干しぶどう門」「クリスマスの森」「オレンジ川」「キャンデーの町」「バラのみずうみ」を経て「お菓子の都」へと至る。これについては、「市壁に囲まれ整然と区画された町を後に、父権の象徴ブランデンブルク門を抜けティーガルテンの緑のなかへ吸い込まれてゆく歩行者の身体感覚に重ね合わせてみると、幻想的情景を演出するホフマンの仕掛けが、ベルリンの地理と不可分であ」 り、こうした情景描写それ自体が「現実」の世界と「幻想」の世界を繋ぐ〈曖昧な合間〉として作用していると言えるだろう。(識名章喜「フリードリヒシュタットの見霊者E.T.A. ホフマン ──ロマン派はベルリンを発見したのか?──」日本独文学会『ドイツ文學』第101巻(1998年)、p.8)

クリスマスから始まる〈曖昧な合間〉

ここまでで本作を取り巻くメタ的側面の〈曖昧な合間〉としての側面を示してきた。ここからは作中においてどのような点に〈曖昧な合間〉が見られるかを、時間的側面と物理的側面の二方向から読み解いていきたい。

第一に時間的側面である。まずこの物語はクリスマス・イヴから語り起こされ、プレゼントが翌日渡されたことから始まるマリーの「幻想」に端を発する。言わずもがなクリスマスとは12月25日であるが、この点から欧米ではクリスマスと新年が同時に祝われることも多い。つまり、クリスマスという時期そのものが「ゆく年」と「くる年」の間の高揚感漂う〈曖昧な合間〉であると言える。

また、それに似た時間的な〈曖昧な合間〉が見られる場面も存在する。

それから、戸棚のガラス戸をしめ、寝室へいこうとしました。
と、そのとき……、ほら、しずかに! みんなも耳をすましてごらん! ひそひそとささやくような、がさごそとなにかが動くような、かすかなもの音が聞こえてきました。音は、ストーブのうしろや、いすのうしろや、戸棚のうしろや、そこらじゅうから聞こえてきます。気がつくと、いつのまにか、壁の時計のうねりが大きくなっていました。うなりはどんどん大きくなってゆくのに、時計はどうしても鳴ることができないようです。
マリーは時計を見あげてみました。すると、時計のてっぺんにとまっている大きな金色のフクロウが、つばさをおろして時計におおいかぶさっていました。そして、くちばしのまがった、ネコのようないやらしい顔を、ぐいとまえにつきだしています。時計のうなりがひときわ大きくなって、はっきりと聞きわけられることばになりました。
〔中略〕
すると、ボオオン、ボオオン、ボオオン! 低い、くぐもった音が十二回、鳴りました! マリーは、ぞーっとしてこわくなりました。

マリーが初めて「幻想」の中に取り込まれる場面は、時計がまさに鳴ろうかという午後12時近く(であり午前0時近く)で、ここでもまさにこの時間が「今日」と「明日」、あるいは「昨日」と「今日」とをつなぐ〈曖昧な合間〉として存在している。

第二に、物理的側面である。物理的側面というのは、おそらく「現実」に属するのであろう物に準拠する形で「幻想」が展開されており、かつ、その物は「幻想」に取り込まれているために、「現実」とも「幻想」ともつかない〈曖昧な合間〉として存在している場合である。

まず、先ほどの引用に続く部分である。マリーはその後、大量のネズミたちを見ておそろしく感じ、その挙句、ガラス戸にぶつかって大けがをしてしまう。その後、クルミわりが登場し、そのネズミたちと戦うことになる。しかしそれは全て「幻想」の話であり、大けがから回復したマリーと母親は次のような会話をする。

「あ、お母さま、」マリーは声をひそめていいました。「あのいやらしいネズミたち、みんな、逃げてった? それで、あのいい人、クルミわりさんは助かった?」
「そんな、わけのわからないことをいうんじゃないの、マリー。」お母さまが答えました。「ネズミとクルミわりがどうしたっていうの? ああ、マリー、あなた、お母さまたちをこんなに心配させて、いけない子ねえ。〔中略〕そして、ねむくなってうとうとしていたところへ、ネズミが一匹走ってきて、びっくりしたんでしょ。ふだんはネズミなんて、いないんだけれど。それでドキンとした拍子に、戸棚のガラスにひじがあたったのね。〔中略〕」

この「ネズミ」という存在はその後も「幻想」だけではなく「現実」の場面でもたびたび言及される。つまり、「幻想」の中に登場するネズミが、「現実」の世界にもいるかもしれない、という〈曖昧さ〉によって、「幻想」と「現実」が関連付けられている。この点でネズミは、それ自体が「現実」のものかもしれないが、一方で「幻想」の中に取り込まれ大きな役割を担っている点で、まさに〈曖昧な合間〉であると言える。

他にも、クルミわりも〈曖昧な合間〉としての役割を担っていると言えるだろう。次に引用するのは、その後、ネズミたちとの戦いを終えたマリーがベッドの上で目覚めた後の場面である。

気がつくと、お母さまが介抱してくれていました。お母さまが言いました。
「まあ、どうしていすからころげおちるなんてことを。もうちっちゃな子どもじゃないのに! ──さあ、ドロッセルマイアーさんの甥御さんがニュルンベルクからおいでになったのよ。おぎょうぎよくなさいね!」
〔中略〕
 食事がはじまると、この親切な若ものは、みんなにクルミをわってくれました。どんなにかたいクルミでも、平気でした。右手でクルミを口のなかへ入れます。そして左手で背中の三つ編みの髪をひっぱると、──カリッ!──クルミはちゃんとわれていました!
「おお、世にもすぐれてごりっぱなシュタールバウム家のおじょうさま、あなたのお足もとにおりますのは、あなたによって、ここ、この場所で命を助けていただいた、幸運なドロッセルマイアーです!〔中略〕そのとたん、おかげでわたくしは、みにくいクルミわりの姿から、ふたたび元のみにくくはない姿にもどることができたのです。〔中略〕」

この場面自体が、すでに「現実」と「幻想」のどっちともつかない〈曖昧な合間〉的性質を持ち合わせていると言うこともできるが、とくにクルミわりに関してはそれが顕著である。

人形であるはずのクルミわりが動きだす、というマリーの「幻想」の世界からは「目覚めた」はずであるにも関わらず、そこにやって来たドロッセルマイアーの甥は元はクルミわりであったと告白する。このドロッセルマイアーの甥自体が、既に「現実」に訪れたのか否かが判然とせず、更にそのセリフによって「幻想」の世界に取り込まれており、クルミわりという物理的存在と、それに準拠したドロッセルマイアーの甥の在り方が〈曖昧な合間〉として機能していると言える。

また、前述した洋服だんすから「お菓子の都」への道のりについても、物理的な〈曖昧な合間〉が見出される。

マリーは、おや、とおもいました。いつもはしまっているこの洋服だんすの戸が両方ともあいていて、いちばん手前にかけてある、お父さまのキツネの毛皮の旅行用オーバーが見えていたからです。

この描写からは、「「ふだんは絞められているはずの箪笥の扉が開く」と、「その前面には父親の旅行用狐皮外套」が吊るされて」おり、「閉ざされたものが開かれ、旅行用外套を通して異次元への旅が暗示され」ている。

たんす自体は元々存在し、そして旅行用のオーバーも、マリーがよく見ていたはずの「現実」に属する物だが、クルミわりが登場した途端、それが異世界への橋渡しを担う「幻想」に属する入口に変貌を遂げる。この点で、たんすや旅行用のオーバーも〈曖昧な合間〉として機能していると言えるだろう。

まとめに

上記の通り、二重性が強調されるE.T.A. ホフマンにおける本作品には、「現実」と「幻想」とを繋ぎとめるために役割を果たし、それでいてなお、そのどちらともつかない〈曖昧な合間〉が見られる。

第一に、ドロッセルマイアーに作者E.T.A. ホフマン自身が投影された上で、そのドロッセルマイアーが「幻想」的作中話としての「かたいクルミのおはなし」の語り手となることによる〈曖昧な合間〉。

第二に、作中において登場する「幻想」的な「お菓子の都」への道筋が当時のベルリンの実際の街並みと重なることによる地理的な〈曖昧な合間〉。

第三に、クリスマスや深夜といった、「ゆく年」とも「くる年」ともつかず、「昨日(今日)」とも「今日(明日)」ともどっちつかずな〈曖昧な合間〉。

第四に、「現実」に存在するかもしれない「幻想」のなかのネズミという〈曖昧な合間〉。

第五に、「現実」に存在するかもしれないドロッセルマイアーの甥が、「幻想」の中からあたかも飛び出してきたようであるということによる〈曖昧な合間〉。

第六に、「現実」に存在するたんすや旅行用のオーバーが、「幻想」的世界への入口となり、それ自体が「幻想」に取り込まれてしまうことによる〈曖昧な合間〉。

こうしたいくつにも重なる〈曖昧な合間〉によって、この物語は「現実」と「幻想」が互いを排除せず共存しつつ、不思議な印象をまとっているのではないだろうか。

#2 河野裕『いなくなれ、群青』

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あらすじ

11月19日午前6時42分、僕は彼女に再会した。誰よりも真っ直ぐで、正しく、凜々しい少女、真辺由宇。あるはずのない出会いは、安定していた僕の高校生活を一変させる。奇妙な島。連続落書き事件。そこに秘められた謎……。僕はどうして、ここにいるのか。彼女はなぜ、ここに来たのか。やがて明かされる真相は、僕らの青春に残酷な現実を突きつける。

河野裕 『いなくなれ、群青』 | 新潮社

静謐の中の正しさ

アニメ「サクラダリセット」と、本作を読んだだけで河野裕を語るのはおこがましいですが、ですがそこには一種の「静謐さ」があるように思います。登場人物は多弁なのだけれど、その背後には何ら〈音声〉が聞こえない。ただ「静謐」な空間で、言葉をキャッチボールするのですが、その会話すら、極めて書き言葉的で〈音声〉を伴っていないように思える。

言ってみれば朝一番の図書館や、誰もいない音楽室のような「静謐さ」の中でやり取りをしているような感覚。例えばそれと正反対にあるのは村田沙耶香の『コンビニ人間』のようなもので、そこにはやはり〈世間〉という騒音が鳴り響いているように思います。

河野裕の作品の登場人物は、誰も皆、深い思索の上に言葉を選んでいるように思えます。

「でも君はちょっと極端なんだ。正しいことの正しさを信じ過ぎている。他の人はもっと、正しいことがそれほどは正しくないんじゃないかと疑っている」

七草が真辺に向けた言葉です。つまり真辺は「正しいことの正しさを信じ過ぎている」ということなのですが、それ以外の人々が「正しいことがそれほどは正しくないんじゃないかと疑っている」というのは、まさに言いえて妙というところがあります。

思い出すのは、有川浩図書館戦争』で堂上が発した「正論は正しい、だが正論を武器にする奴は正しくない。」ではないかと思います。人々は、純潔であることが良いと考えている。それはとても「正しい」感覚なのですが、その純潔は、時として人を傷つけることだってあるのです。

「あらゆる言葉は、誰かを傷つける可能性を持っている。明るい言葉でも愛に満ちた言葉でも、どんな時にも間違いのない言葉なんてないよ」

これもやはり七草が真辺に向けた言葉です。真辺の「正しさ」とは、時として他人を傷つけるものである。それと同時に、それは「強さ」を必要とするものでもある。だから、本作に登場した大地にもなお「正しさ」を貫徹するべきかで、真辺と七草の意見は一致しないのです。

しかし、七草の「正しさ」は、やはり本当に正しい。

「閉じ込められていたとしても、壁があったらそれを壊せばいいじゃない。でもここには壁がない」

この真辺の指摘は、まさに当たっています。例えば、諌山創『進撃の巨人』や、白井カイウ出水ぽすか約束のネバーランド』を思い出してみましょう。こうした作品群は、基本的に〈壁〉を仮構して、その外部に救いを見出す作品です。

これは「時代閉塞の現状」(石川啄木)を反映したものなのかもしれない。

 我々青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行わたっている。*1

この「強権」がいかなるものなのかについて、仔細な議論は今はやめておきましょう。ただし、この「流動しなくなった」「空気」をまさに〈壁〉として仮構したのが、こういった作品なのです。しかし残念ながら、〈壁〉という分かりやすい存在は、「それを乗り越えさえすればいい」という点において、安直すぎやしないでしょうか。

つまり、この「時代閉塞の現状」とは、それを乗り越えた先に〈ネバーランド〉があるのではなくて、どうしようともその「空気」に飲み込まれてしまい、永遠に〈ネバーランド〉には到達しえないということこそが問題なのです。

そう、それは言い換えれば、まさに真辺が言う通り、「閉じ込められているなら壁を壊せばいい」のだが、この階段島には「壁がない」という問題と、通底している。僕たちは、圧倒的に脱出不可能な「時代閉塞の現状」=「終わりなき日常」の中にいるのでしょう。

宇野常寛が『母性のディストピア』で書いたように、「終わりなき日常」が〈政治〉と〈文学〉の不一致にあるのだとすれば、それはやはり階段島でもそうだということになるでしょう。

 その様はコンピュータゲームの世界を想像させた。一見すると平和な町でも、現実的に考察すると明らかにおかしな点がある。商業が成り立つはずがなかったり、国家を維持するには明らかに人口が少なすぎたり、家屋と住民の数が合わなかったり、という風に。階段島も同じように奇妙な点がある。なぜか生活に必要なインフラは安定して整っており、明らかに流出の方が多いように感じる貨幣は枯渇せず、住民がぽんと増えても住む場所や食料が足りなくなるようなこともない。誰かがどこかで無理やり辻褄を合わせているようだった。

これは現在における「異世界」系の作品の隆盛にまでつながる指摘です。管見では、「異世界」系の作品の多くは、まさに東浩紀が指摘したような「ゲーム的リアリズム」を少し変形させてコピーすることに勤しんでおり、それはまるきりコンピュータゲームの世界でしかありません。

僕たちは、そこに「誰かがどこかで無理やり辻褄を合わせている」などという想像力すら持たない。例えばそれは近年の働き方改革における「残業しない」「定時で帰る」と言ったところにも見えているのです。「残業しない」「定時で帰る」といった「正しさ」は、確かに「正しい」のだけれど、そこでこなされなかった仕事はどうなるでしょう。きっと他の人が担っているに違いない。けれどそうした「辻褄」には目をくれないことにするのです。

七草は、そうした真辺の圧倒的「正しさ」──それは時として「辻褄」に目をくれないことを伴うのかもしれませんが──をピストルスターに喩えています。

「遠く離れていても、信じられないくらいに明るい星が、僕たちの頭の上にはあるんだよ。それがなんだか嬉しいんだ」

七草が大地に向ける、ピストルスターに関する言葉です。実在も不確かな、太陽の隣の恒星。七草は、真辺との再会を喜びきれないところがある。どちらかというと「会ってしまった」という感覚で、「会いたくなかった」という雰囲気です。それは当然そうで、ピストルスターは遠く離れたところになければならない。

だからこそ、七草は階段島にいたずら書きをすることにする。

「大げさに言ってしまえば、ピストルスターを護りたかったんだよ」

真辺は、そんな七草にこう言います。

「ずっと知っていたよ。七草が、いつも私の手元を照らしてくれていたんだ。私はずっと、きみに護られていたんだ」

七草は真辺をピストルスターだと思うけれど、真辺もまた、七草をそのように思っているのです。

 真辺由宇は僕にとってのピストルスターでよかった。群青色の空に浮かぶ、決して手の届かないものでよかった。この世界のどこかで、変わらずに輝いていると信じられればよかった。その光が僕を照らす必要はなかった。それだけで僕の救いだった。それだけが僕の望みだった。それだけだった。本当に。なのに。

 きっと僕たちは再開して、また一緒にいたいと願ってしまった。

なんと痛切な言葉でしょう。これを大森望は「いまどき珍しいほどまっすぐな、胸に迫るラブストーリー」*2と評しています。

そもそも「ラブストーリー」とは何か。どこかで誰かが定義しているかもしれませんけれど、それを置いておいて、考えてみれば、不思議なことに「ラブストーリー」とは大概「愛の過程」を描く物語なのです。つまり、「幸せな結婚生活」を描くような作品は少なく、その多くが「幸せをつかむまでの道のり」を描く。

そう考えてみれば、大森望の評も理解できるというものです。つまりこの二人は「結ばれてはいけない」、少なくとも七草はそう思っている。それは、それぞれの家が揉めているからだとか、片方が吸血鬼だからだとか、そういうことじゃない。真辺がピストルスターだから、という一点に尽きるのです。

その点で、この物語は、この一冊で完結しているようにも見える。けれど、この「ラブストーリー」は、まだ始まったばかりであることは、極めて明白でしょう。