#2 河野裕『いなくなれ、群青』

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あらすじ

11月19日午前6時42分、僕は彼女に再会した。誰よりも真っ直ぐで、正しく、凜々しい少女、真辺由宇。あるはずのない出会いは、安定していた僕の高校生活を一変させる。奇妙な島。連続落書き事件。そこに秘められた謎……。僕はどうして、ここにいるのか。彼女はなぜ、ここに来たのか。やがて明かされる真相は、僕らの青春に残酷な現実を突きつける。

河野裕 『いなくなれ、群青』 | 新潮社

静謐の中の正しさ

アニメ「サクラダリセット」と、本作を読んだだけで河野裕を語るのはおこがましいですが、ですがそこには一種の「静謐さ」があるように思います。登場人物は多弁なのだけれど、その背後には何ら〈音声〉が聞こえない。ただ「静謐」な空間で、言葉をキャッチボールするのですが、その会話すら、極めて書き言葉的で〈音声〉を伴っていないように思える。

言ってみれば朝一番の図書館や、誰もいない音楽室のような「静謐さ」の中でやり取りをしているような感覚。例えばそれと正反対にあるのは村田沙耶香の『コンビニ人間』のようなもので、そこにはやはり〈世間〉という騒音が鳴り響いているように思います。

河野裕の作品の登場人物は、誰も皆、深い思索の上に言葉を選んでいるように思えます。

「でも君はちょっと極端なんだ。正しいことの正しさを信じ過ぎている。他の人はもっと、正しいことがそれほどは正しくないんじゃないかと疑っている」

七草が真辺に向けた言葉です。つまり真辺は「正しいことの正しさを信じ過ぎている」ということなのですが、それ以外の人々が「正しいことがそれほどは正しくないんじゃないかと疑っている」というのは、まさに言いえて妙というところがあります。

思い出すのは、有川浩図書館戦争』で堂上が発した「正論は正しい、だが正論を武器にする奴は正しくない。」ではないかと思います。人々は、純潔であることが良いと考えている。それはとても「正しい」感覚なのですが、その純潔は、時として人を傷つけることだってあるのです。

「あらゆる言葉は、誰かを傷つける可能性を持っている。明るい言葉でも愛に満ちた言葉でも、どんな時にも間違いのない言葉なんてないよ」

これもやはり七草が真辺に向けた言葉です。真辺の「正しさ」とは、時として他人を傷つけるものである。それと同時に、それは「強さ」を必要とするものでもある。だから、本作に登場した大地にもなお「正しさ」を貫徹するべきかで、真辺と七草の意見は一致しないのです。

しかし、七草の「正しさ」は、やはり本当に正しい。

「閉じ込められていたとしても、壁があったらそれを壊せばいいじゃない。でもここには壁がない」

この真辺の指摘は、まさに当たっています。例えば、諌山創『進撃の巨人』や、白井カイウ出水ぽすか約束のネバーランド』を思い出してみましょう。こうした作品群は、基本的に〈壁〉を仮構して、その外部に救いを見出す作品です。

これは「時代閉塞の現状」(石川啄木)を反映したものなのかもしれない。

 我々青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行わたっている。*1

この「強権」がいかなるものなのかについて、仔細な議論は今はやめておきましょう。ただし、この「流動しなくなった」「空気」をまさに〈壁〉として仮構したのが、こういった作品なのです。しかし残念ながら、〈壁〉という分かりやすい存在は、「それを乗り越えさえすればいい」という点において、安直すぎやしないでしょうか。

つまり、この「時代閉塞の現状」とは、それを乗り越えた先に〈ネバーランド〉があるのではなくて、どうしようともその「空気」に飲み込まれてしまい、永遠に〈ネバーランド〉には到達しえないということこそが問題なのです。

そう、それは言い換えれば、まさに真辺が言う通り、「閉じ込められているなら壁を壊せばいい」のだが、この階段島には「壁がない」という問題と、通底している。僕たちは、圧倒的に脱出不可能な「時代閉塞の現状」=「終わりなき日常」の中にいるのでしょう。

宇野常寛が『母性のディストピア』で書いたように、「終わりなき日常」が〈政治〉と〈文学〉の不一致にあるのだとすれば、それはやはり階段島でもそうだということになるでしょう。

 その様はコンピュータゲームの世界を想像させた。一見すると平和な町でも、現実的に考察すると明らかにおかしな点がある。商業が成り立つはずがなかったり、国家を維持するには明らかに人口が少なすぎたり、家屋と住民の数が合わなかったり、という風に。階段島も同じように奇妙な点がある。なぜか生活に必要なインフラは安定して整っており、明らかに流出の方が多いように感じる貨幣は枯渇せず、住民がぽんと増えても住む場所や食料が足りなくなるようなこともない。誰かがどこかで無理やり辻褄を合わせているようだった。

これは現在における「異世界」系の作品の隆盛にまでつながる指摘です。管見では、「異世界」系の作品の多くは、まさに東浩紀が指摘したような「ゲーム的リアリズム」を少し変形させてコピーすることに勤しんでおり、それはまるきりコンピュータゲームの世界でしかありません。

僕たちは、そこに「誰かがどこかで無理やり辻褄を合わせている」などという想像力すら持たない。例えばそれは近年の働き方改革における「残業しない」「定時で帰る」と言ったところにも見えているのです。「残業しない」「定時で帰る」といった「正しさ」は、確かに「正しい」のだけれど、そこでこなされなかった仕事はどうなるでしょう。きっと他の人が担っているに違いない。けれどそうした「辻褄」には目をくれないことにするのです。

七草は、そうした真辺の圧倒的「正しさ」──それは時として「辻褄」に目をくれないことを伴うのかもしれませんが──をピストルスターに喩えています。

「遠く離れていても、信じられないくらいに明るい星が、僕たちの頭の上にはあるんだよ。それがなんだか嬉しいんだ」

七草が大地に向ける、ピストルスターに関する言葉です。実在も不確かな、太陽の隣の恒星。七草は、真辺との再会を喜びきれないところがある。どちらかというと「会ってしまった」という感覚で、「会いたくなかった」という雰囲気です。それは当然そうで、ピストルスターは遠く離れたところになければならない。

だからこそ、七草は階段島にいたずら書きをすることにする。

「大げさに言ってしまえば、ピストルスターを護りたかったんだよ」

真辺は、そんな七草にこう言います。

「ずっと知っていたよ。七草が、いつも私の手元を照らしてくれていたんだ。私はずっと、きみに護られていたんだ」

七草は真辺をピストルスターだと思うけれど、真辺もまた、七草をそのように思っているのです。

 真辺由宇は僕にとってのピストルスターでよかった。群青色の空に浮かぶ、決して手の届かないものでよかった。この世界のどこかで、変わらずに輝いていると信じられればよかった。その光が僕を照らす必要はなかった。それだけで僕の救いだった。それだけが僕の望みだった。それだけだった。本当に。なのに。

 きっと僕たちは再開して、また一緒にいたいと願ってしまった。

なんと痛切な言葉でしょう。これを大森望は「いまどき珍しいほどまっすぐな、胸に迫るラブストーリー」*2と評しています。

そもそも「ラブストーリー」とは何か。どこかで誰かが定義しているかもしれませんけれど、それを置いておいて、考えてみれば、不思議なことに「ラブストーリー」とは大概「愛の過程」を描く物語なのです。つまり、「幸せな結婚生活」を描くような作品は少なく、その多くが「幸せをつかむまでの道のり」を描く。

そう考えてみれば、大森望の評も理解できるというものです。つまりこの二人は「結ばれてはいけない」、少なくとも七草はそう思っている。それは、それぞれの家が揉めているからだとか、片方が吸血鬼だからだとか、そういうことじゃない。真辺がピストルスターだから、という一点に尽きるのです。

その点で、この物語は、この一冊で完結しているようにも見える。けれど、この「ラブストーリー」は、まだ始まったばかりであることは、極めて明白でしょう。