#6 村田沙耶香「星が吸う水」

あらすじ

恋愛ではない場所で、この飢餓感を冷静に処理することができたらいいのに。「本当のセックス」ができない結真と彼氏と別れられない美紀子。二人は「性行為じゃない肉体関係」を求めていた。誰でもいいから体温を咥えたいって気持ちは、恋じゃない。言葉の意味を、一度だけ崩壊させてみたい。

『星が吸う水』(村田 沙耶香):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部

鈍く抉る

僕たちが無意識に抱く「常識」のようなものに対して、そこをブスリと突き刺す殺傷力が村田沙耶香の持ち味なのだとすれば、「星が吸う水」にそれは感じ取られない。むしろ、切れ味抜群の刀剣か何かで四肢を切断されて、その切れ味故に切断されたことにさえ気が付かない、といった様子か。

主人公は鶴子と言う。ピルを飲んでいるために禁煙を余儀なくされており、そのために禁煙パイポをやたらに咥えている。しかし結構序盤に、このように書かれる。

 鶴子は自分が勃起しているのを感じた。しゃがんで向かい合っていた鶴子は、立ち上がり、武人の腕を引っ張りあげた。腕を握ったまま廊下を進み始めた鶴子に転ばされそうになり、急いで立ち上がった武人は足首を振って、スニーカーを玄関に放った。転がっていくオレンジのスニーカーを横目で見ながら鶴子はさらに力をこめて、武人の雨に濡れた腕に指を食い込ませた。

鶴子は女性であるはずだが、それが「勃起」と言うので、少し素っ頓狂な表情をしてしまいそうなところであるが、ここで鶴子が捉えた武人とは、性的関係を持つ相手である。ただし、「付き合っている」というような恋愛感情のようなものは感じ取られなくて、ただドライな分析がなされる。

鶴子の言う「勃起」というのが、(おそらく)クリトリスのことを示すのではないかと思われるが、そのことは明示されず、まるでペニスであるかのように描かれる。ペニスとクリトリスに差異はなく、同じように「勃起」すると描かれるのだ。

「自分が女だということが、だんだんと遠ざかっていく。」と語る鶴子である。鶴子はセックスにおいて、「女性」としてではなく、「動物」として、いる。

鶴子は仕事を辞めて三か月ほど、定職にもつかずに過ごしている。さながら「モラトリアム」といった具合か。ただし、法的に何かが猶予されるわけではない。自分が、自分に課すことを猶予するという意味において「モラトリアム」である。

そんなうだつの上がらない暮らしをする鶴子に、友人である梓は説教する。

「女は、自分をいかに高く売るかってことを考えないとだめなんだよ。対等なんて甘いと思う。女であることを利用しないと、こっちが利用されて終わるんだよ。絶対的に立場が弱いんだから。戦わなきゃだめだよ。安く見られるなんて、絶対にだめなんだから」

梓のものの見方は、きわめて「一般的」だろう。

しかしそれにドライな見方を突きつける鶴子は、この視点の弱点を見透かしているようでもある。

すなわち、「女は本質的に〈弱い〉」ので、「〈強く〉あろうとせねばならない」もしくは、「男を出し抜かねばならない」と考えることは、「女は本質的に〈弱い〉」という事実を固定させるばかりで、それを覆す力にはならないのだ。

ここで〈父〉的に、つまりパターナリズム全開で鶴子を説教する梓も、また例外ではない。梓の発想では、いかなる現状も変革されはしない。

しかしもちろん、鶴子の発想も、現状を変革させるわけではないのだが──そこで鶴子は梓に次のような感想を向ける。

 梓にとって、結婚は一世一代の人身売買なんだろうな、と鶴子は思う。なので商品としての自分に傷がつかないよう、いつも努力しているし、なるべく高く売ってちゃんと未来まで相手に尊重されようと、今からしっかり土台を造ろうとしている。鶴子は、そういう梓がとても息苦しそうに見えるときがある。背中を撫でて、大丈夫だよ、もっと適当でいいよ、と言いたいが、その発言に本当に責任が持てるのかといえば、鶴子にはよくわからなかった。

梓はまるで結婚を「一世一代の人身売買」と考えていると分析するわけである。そう、梓は、自分が「買われる」という受け身の対象=目的語にしかなり得ないということをよく承知しており、それならば、よりよい待遇を得ようというのである。

だとすればこれと相対するのは、自らを「買う」という為手=主語に押し上げようという働きだが、それは少なくとも本作には見えない(『コンビニ人間』にはある)。

ただ、鶴子には「自らが商品である」というのが納得できないのである。いや、より本質に添った言い方をすれば、「理解できない」のだ。

…性器が穴状だと、いくら能動的に行動していても、受身だと思われてしまうのかもしれない。それが鶴子には不満だった。

鶴子が不満を抱くのも無理はない。なぜなら、鶴子自身にとって性器とは穴状で想像されるのではない。それはあくまで勃起したクリトリスの姿で想像されるのであり、男性のペニスを自らの膣に挿入することさえ、そのクリトリスに刺激を与える手段に過ぎない。

鶴子がそのように、梓の発想に違和感を持ちうるのは、鶴子が「あたしの性指向はまだ作り途中」と自認するところとも繋がる。つまり、鶴子には「自分は商品だ」と言うような固定観念が完成する以前の、まだ流動的な漠然とした何かがあるに過ぎない。それが完成するまでのモラトリアムの中に、まだ鶴子はいるのである。

その相対が、「地球とセックスする」という怪しげなWEBサイトに対する反応である。

「開発? そんなもん、入れるか入れられるかでしょ。とにかく、男性器か、女性器かもわかってないのに、間抜けだって言ってんの」

「どちらでもないんじゃない? ペニスの形でもヴァギナの形でもない、地球オリジナルの性器なんじゃない?」

梓は、「セックスする」と聞くと、そこに入れる〈主体〉の男性器か、入れられる〈客体〉の女性器かのどちらかしか想像できない。彼女の発想はすでに「固定」してしまっているからである。

しかしまだ「固定」しておらず、「流動」する発想しか持ちえない鶴子は、そうでもない「地球オリジナルの性器」という発想に達することができるのである。

物語はいかに終わるか。

鶴子・梓、そして無性愛者の志保が歩いている最中に、鶴子が「立ちションしよう」と実際にやって見せるところで終わる。

二人は(特に梓は)「できない」と言うが、鶴子が「できる」と言い張り、やって見せる。ここにもきれいな相対が見える。鶴子にはそうした固定観念が無い。これはフレキシブルな発想ができると褒めていいのかもしれないが、一歩間違えれば常識が無いだけの変態だろう。

そもそも「常識」とは、共同体の中で分有されることで秩序を維持するための最低限のルールである。それを持たないというのは、共同体にとって有益な、フレキシブルな発想を提示する可能性もあるが、共同体を危機に陥れる恐れの方が大きいだろう。

村田沙耶香は、その恐れを引き受けており、常にそのように「変態」を描く。

その時しばしば「固定」した職業に就かず、モラトリアムであるのも、その流動的な発想を流動的なままに、乾燥させないためであると言えるだろう。

その点で、本作はやはり「村田沙耶香作品」として読まれるに値するだろう。