#4 村田沙耶香『マウス』

あらすじ

 私は内気な女子です――無言でそう訴えながら新しい教室へ入っていく。早く同じような風貌の「大人しい」友だちを見つけなくては。小学五年の律(りつ)は目立たないことで居場所を守ってきた。しかしクラス替えで一緒になったのは友人もいず協調性もない「浮いた」存在の塚本瀬里奈。彼女が臆病な律を変えていく。

小学校の頃から、女子はたいへん。思春期、教室に渦巻いていた感情をもう一度。

「学校という場所は、スーパーに似ている。私たちは陳列されているのだ。そしてそれを評価するのは、教師じゃなくて、子どもたち。これも学校の勉強のひとつなんだよ、お母さん」

『マウス』(村田 沙耶香):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部

脱胎するメトニミー

タイトルが『マウス』であるから、どういうことだろうと思ってみるが、別に中にねずみが出てきてどうこうということではない。

主人公は田中律という少女であり、彼女が小学五年生になったところから物語が始まる。

クラス替えで友達がいない不安感、友達を見つけてつるむ。さらにスクールカースト下位のクラスメイトを見つけて安堵する。例えば朝井リョウが『桐島、部活やめるってよ』で描いたような残酷な教室内の階級が、小学校であっても厳然と存在する。

クラスメイトの塚本瀬里奈は、些細なことで泣いてしまうような少女で、他のクラスメイトからも迷惑がられていた。田中律は、泣き出すとどこかへ消える塚本瀬里奈に興味を抱き、後をつける。

 私の頭に、小さいころ読んだ、「くるみ割り人形」の絵本で、マリーが洋服箪笥の中から異世界へ旅立つシーンが浮かんだ。まさか、塚本瀬里奈はこのドアからどこか遠くへ行ってしまったのではないだろうか。

僕はこの記事を準備するのに合わせて、E.T.A.ホフマンの『クルミわりとネズミの王さま』についての記事を書いた。

bungaku-an.hatenablog.com

僕がこの中で書いたのは『クルミわりとネズミの王さま』の魅力とは、それが現実とも幻想(妄想)ともつかず、その両者をつなぎとめる〈曖昧な合間〉が存在することによって発揮されるのではないかということだ。

中でマリーは夜な夜な異世界へと旅立つ。常識的に考えてそれは、少女の儚い妄想に過ぎない。しかしそれが「妄想」と言い切れないこと、もしかするとそれは現実に存在したのかもしれないと思わせられるのが文学の力であり、この作品の魅力でもある。

塚本瀬里奈を見つけた田中律が尋ねると、塚本瀬里奈は泣くたびに「灰色の部屋」に自分がいることを夢想するという。

「私、ドアを閉めて……部屋の中央に裸足で歩いていきます。床はひんやりと冷たい。壁も、床も、天井も、灰色で、どこにも電気も窓もついてなくて、爪先がぼやけて見えるくらい薄暗い。

 中央にきたら、私はお尻をつけて座ります。天井を見上げると、壁と壁の隙間から、光のすじがいっぱい入り込んできていて……すじの先は、私のところまで届く前に、部屋の中の薄暗さに、溶けて消えてしまっています。空気は暖かくも、寒くもなくて、でも、どこからかぬるい風が入り込んできて、前髪が、ふわふわ、上下に揺れます。なんだか頭を撫でられているみたいて……私、目を閉じます」

彼女は、感情が〈外〉に向けて出ようとする=涙が出るたびに、むしろ〈内〉に閉じこもろうとしている。その〈内〉が「灰色の部屋」であると考えて良いだろう。灰色は、コンクリートの色を思わせる。全く無機質で、感情的ではない閉鎖的な空間である。

そんな塚本瀬里奈に、田中律は「くるみ割り人形」を読ませることにする。

「世の中には、もっと綺麗で楽しいものがいっぱいあるんだよ。灰色の部屋なんて、つまらないところに閉じこもってる人、塚本さんだけだよ。塚本さんは、まだ世の中を知らないんだ。私が教えてあげるよ」

「私が教えてあげるよ」というのは、善意のお節介ではない。

田中律は、過酷なスクールカーストの世界にいる。懸命に努力している。しかし塚本瀬里奈は、好き勝手に泣いたかと思うと〈内〉に閉じこもる。その彼女の「まるで手を抜いているような感じ」にイライラしたと言ったほうが正確だろう。つまり田中律は塚本瀬里奈に「お前も〈外〉に出て戦え」と言っているのである。

実際、塚本瀬里奈は「くるみ割り人形」を読んで、劇的にその性格を変える。「灰色の部屋」が「くるみ割り人形」に染め上げられた新しい「部屋」へと変わったわけである。

「律。私、もう、外に出ないことにする」

「えっ」

 ずっと黙っていた瀬里奈が突然喋ったので、私は驚いて背中に駆け寄った。

「私、もう、ここから出てこない。そしたらまた今日みたいなことがあっても大丈夫だもの。最初から、こうすればよかったんだ」

〈外〉へ出ろ、と命ずる田中律の思いも空しく、塚本瀬里奈は〈内〉に閉じこもることを決意する。塚本瀬里奈は〈内〉において「くるみ割り人形」の主人公マリーよろしく、そこで異世界に暮らそうと言うのだ。

「気のせいなんじゃないのかな。だいたい、瀬里奈がなりきってる『マリー』って、あの本のマリーとは全然違っちゃってるし……もう、その本を読まなくても、瀬里奈はいまのままなんじゃないのかなあ」

塚本瀬里奈はマリーになろうとしている。しかしそのマリーとは、もはや元のマリーではない。いわば「くるみ割り人形」に登場するマリーを脱胎して、そこに塚本瀬里奈の自我を代入していると言えるだろう。

しかし、自我を代入する先を求めているのは、何も塚本瀬里奈だけではない。オリジナルとして存立することを諦め、〈内〉と〈外〉に明確な〈壁〉を仮構することを志すのは、田中律も同じである。

田中律は大学生になって、ファミリーレストランで働いている。

 私はもう一度鏡をのぞいた。そこには、「田中律」ではなく、一人のしっかりと身なりを整えた「店員」がいた。

後に村田沙耶香はこのモチーフを『コンビニ人間』などで発展させる。すなわち、自らの「あるべき姿」を「社会的通念」や、より単純な「マニュアル」のようなものによって規定しようとしている。〈外〉で戦うことを諦め、〈壁〉に合わせて〈内〉にとどまろうとする志向だと考えて良い。

塚本瀬里奈が「くるみ割り人形」のマリーに自我を代入するように、田中律は「店員」に自我を代入する。両者ともに、その際何かを「脱胎」している。つまり、何かを骨抜きにしているのである。

塚本瀬里奈は、「くるみ割り人形」オリジナルのマリーを脱胎し、田中律は自分自身を脱胎し「店員」になる。

この違い、すなわち脱胎する対象の違いは、次のような違いを生み出す。

くるみ割り人形」などなくても、瀬里奈は大丈夫なのだ。自分を偽って、他人に合わせようとする才能がまったくないのだ。そのことでいくら摩擦を起こしても、いずれはありのまま受け入れてもらえるのだ。小学校のころだって、きっと、あのまま泣きじゃくって嫌われていたって、いずれは、そのままの瀬里奈を面白がってくれる人を見つけることができたのだ。

塚本瀬里奈は、実はマリーになるために自我を変形しているように見えて、変形していない。マリーの方を変形し、自分に合わせている。それはさながら「服」のようなものである。

一方、田中律は「服」などのように脱胎を行っているわけではない。奇しくも彼女が勇気を出して買ったワンピースが、彼女には似合わないものであったように、彼女は自分自身を決められた「服」に合うように変形させている。

さて、こうした脱胎からの卒業。すなわち「ありのままの自分」のようなものを受け入れることで物語が完成する。そういう安直なハッピーエンドを、村田沙耶香は許してくれない。

タイトルに戻ろう。田中律は、自らを「マウス」だと考える。それは「マウス」に「臆病者」という意味があるからである。しかしそれだけではないことが、物語の終盤に明らかにされる。

 私は手を振って蓮井さんと別れた。階段の側の自動販売機で温かいお茶を買いながら、私は小学校のとき、路線図を握り締めて、大人用の大きな辞書で「マウス」の意味を調べたときのことを思い出していた。

(mouse。ハツカネズミ、小ネズミ……臆病者。内気な女の子……それと、かわいい子、魅力ある女の子)

田中律は勇気を出して買った似合わないワンピースをきっかけに仲を深めた蓮井に「自分はマウスに似ている」と話した後に、こう思い出す。

田中律は、決して脱胎から卒業したのではない。むしろこれからも脱胎し続けることを決意している。今までは「臆病者」という意味で「マウス」を換喩的に自分だと思ってきたかもしれない。しかしこれからは「かわいい子」を換喩的に自分だと思っていくのだろう。

これからも田中律の自我を脱胎した換喩=代入は続いていく。ハッピーエンドのように装われたこの物語は、決してそれが終わらないことを示しており、実はその点において残酷である。