#5 村田沙耶香「ギンイロノウタ」

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あらすじ

極端に臆病な幼い有里の初恋の相手は、文房具屋で買った銀のステッキだった。アニメの魔法使いみたいに杖をひと振り、押入れの暗闇に銀の星がきらめき、無数の目玉が少女を秘密の快楽へ誘う。クラスメイトにステッキが汚され、有里が憎しみの化け物と化すまでは……。

村田沙耶香 『ギンイロノウタ』 | 新潮社

疑似的にセックスしつづけること

一人称小説であるが、その語り手である「私」=有里は言葉を上手に操ることができない。

 言語を手に入れてからも、私はその卑屈な産声と同じような喋り方で声を出し続けた。かぼそく、よく途切れる私の声は、聞いている人間を苛々させた。

「内気」と評される有里は、対外的に言語を語りえない。彼女の「話す言語」は収奪されていると言えるだろう。そんな彼女は、自宅の押し入れの中に自分だけの世界を見つける。自分だけが存在する世界である。

その押し入れの天井には様々な雑誌などから切り抜いてきた目が貼られており、文房具店で手に入れた銀色のステッキ(教員が用いるような鉄製の指し棒)で自慰をする。

 ペニスはあったかい肉片で、私の穴はそれを吸い込むだろう。私はその柔らかい塊を、膣で舐め、吸い付き、いつまでも味わい続けるのだ。

(肉体を、咀嚼したい……、咀嚼したい……)

 そう思って激しく腿を締め上げていると、私は簡単に達してしまった。

彼女はその自慰で、いつかペニスを自らの体に受け止めることを妄想し続ける。そのステッキを疑似的にペニスに見立てて、自慰をするのである。

しかし、そうした有里の内気の性格を許さないのが、中学校教師の赤津だった。

「お前、人見知りなんて言葉に甘えていたら、ろくな大人にならないぞ。自分の殻に閉じこもってちゃだめだ、外に出ないと! それじゃいつまでたってもクラスに溶け込めないぞ」

赤津は、そうして有里にクラス内でのスピーチを強いるが、うまくいかない。喋れないのである。それもそのはず、有里の言語は収奪されているのだから。

そんなスピーチの最中(と言っても言葉を発することはできず、ただ沈黙して教室の正面に立ち尽くすだけなのだが)、彼女は銀色のステッキを失ってしまう。

(入ってくる。外の世界が私に入ってくる。塞がなくては。塞がなくては)

 私は押し入れを開け、小学校のころ使っていた縄跳びの縄を取り出した。首にそれを巻き、両手で端を強く引っ張った。

 息が苦しくなってくると、だんだんと内臓の痛みがやわらいでいくような気がした。

(……塞がなくては。完全に塞がなくては……)

銀色のステッキは、彼女を一人きりの世界に誘う〈鍵〉なのであり、彼女を一人きりに閉じ込めてしまう〈鍵〉でもあった。しかしそれを失った今、彼女は自ら窒息しようとすることで、自らの中へと閉じこもろうとしている。

ステッキを失った有里は、それから、赤津を殺す妄想をすることでその代わりとする。

『6月3日

 私は赤津を、人気のないところで、いっぱい刺す。そうしたら、どんなに、気持ちがいいだろう。』

ここで、有里が銀色のステッキをペニスに見立て、疑似的に行っていたセックスが、銀色のステッキを失ったとともに、別のものに置き換えられていることに気が付くだろう。

彼女が日記に人知れずしたためる赤津の殺害計画は、いつもきまってナイフを用いる。フロイトによれば、ナイフとは男性器の象徴なのであって、そのことを考えてみれば、彼女がペニスを挿入されることによってセックスを行うのではなく、ペニスを挿入することによってセックスを行おうとしていることに気が付くだろう。すなわち、受け入れる立場から、指し込む立場への転位である。

その際注目すべきは次の箇所である。

 ノートを後で読み返して不思議なのは、妄想の中で、赤津を殺しても殺しても生き返ってくるような不安にかられているらしいことだった。

だからこそ、彼女はノートの中で赤津を殺し続けるのである。

例えば中国語で「殺す」と言うときには、その動作によって「生きている」という状態が変化したことを示す「了」を付し、「殺了」としなくてはならない。

しかしこのとき有里は殺そうとしても殺せないのであって、永遠に「殺了」にはたどりつかず、殺し続ける必要があるのである。

そんな彼女は、中学校を卒業し、高校生になり、ふとしたことでコンビニのバイトを始める。村田沙耶香が後に『コンビニ人間』で著すことになるイメージの端緒がここにあると言えるだろう。

彼女はそのコンビニで同僚から話しかけられる。

 事務所に残された私は、自分の乾いた唇を摑んで立ちすくんでいた。喋る、ということが何なのか、よくわからなかったのだ。小さいころを思い返してみても、私の口はずっと言い訳をするための器官で、何かを喋ったことなどない気がした。

彼女の言語は、依然収奪されたままであり、言い訳以外を口にすることができない。

そのコンビニで、彼女は赤津が不慮の交通事故によって死んだことを知る。

先ほどの通り、彼女は赤津を殺し続けていたのであるが、皮肉なことに、それが彼女にとっての精神安定剤であった。銀色のステッキによる自慰=疑似的なセックスが、赤津を殺し続けること=疑似的なセックスへと転成したのであるが、それが突如終了してしまった。殺すべき赤津は、本当に死んでしまったのだ。

 自分の手が勃起しているのがわかった。生き物になった手には、刺激を食べさせなくてはならないのだ。そしてそれは紙をちぎるような感触ではだめなのだ。

セックスできなくなった有里が欲求不満から勃起するようになるのは、当然のなりゆきと言って良い。そして、それを抑えることができないのである。

さて、ここまでで二つの事柄を、平行する形で話してきた。

すなわち、彼女にとって言語が収奪されているのだという問題と、彼女は疑似的にセックスを重ねてきたのだということだ。しかしそれは無関係ではない。

 そしてそのとき、私はわかるだろう。なぜ私は膣にペニスをいれることができなかったか。なぜ私は言語というもので人と絡み合うことができなかったか。私が選ばれた人間だからだ。私はたった一つの尊い手段を与えられていて、迷わずにここにたどりつくために、他の道は全て封鎖されたのだ。』

普通の人々にとって、すなわち言語を収奪されていない人々にとって、言語を交換するというコミュニケーションは普通に存在するのだが、それが彼女にとって存在しない。そしてそれは、彼女にとって性的なものの欠如とつながっていた。

だからこそ彼女は自慰にふける。ある時は銀色のステッキを自らに差し込むことで、ある時はナイフを男に刺す様を想像することで。

最後に、有里の中にはステッキの歌声が聞こえてくる。村田沙耶香らしからぬ、極めて抽象的な叙述である。有里には最後、「外の世界が私を呼んでい」るという感覚がある。しかし、その外が、果たして私たちの世界であるのか、あるいは彼女の内面であるのか示されない。

はっきり言って、この作品がこれまでの作品、そしてこれからの秀作に比して優れているとはいいがたい。しかし、村田沙耶香がセックスというモチーフを寓意を込めて描くことを考えるときに、欠かせない一作である。