第三項理論批判序説(1):田中実「断想」を読む

はじめに

田中実氏が提唱する「第三項理論」は、主に日本文学協会を中心に国文学界隈を席巻した。もちろん、ここにおける一種の「ブーム」が、権力闘争の中におけるある人工的なものであるという話はある。

しかしながら、国文学という「歴史ある」学問において新たな理論が提唱されたことは注目に値するし、検討の必要があるだろう。

とは言いつつ、「第三項理論」に対する批判の多くも「その内容はよく分からないが」のような枕詞を冠することが多い。その難解な理論は、根本的に理解しがたい。そこでここでは、「第三項理論」に関わる論文や論考を緻密に、かつ批判的に読むことで、自分なりの「第三項理論」理解を行いたい。

それがどこかの〈他者〉に貢献すれば幸いである。

「断想」(『日本文学』第50巻第8号、日本文学協会)

この論考において、まず理解すべきは、次の箇所であろう。

 バルトが提起した〈本文〉の「還元不可能な複数性」、この極限のアナーキーな概念の場に立ち会うと、必ずしも「単なる物質の断片」に化してはいない。主体と客体の相関で捉えられない第三項〈原文〉を仮設してみると、その影(=プレ〈本文〉と呼んでいる)が〈本文〉のなかに働いているのが証明できるからである。すなわち、〈本文〉は実体そのものでも、アナーキーなものでもなかった。到達不可能な《他者》である。とすると、文学の〈いのち〉は死んでいない。逆に、情報社会にこそ広く心の闇は深まり、〈文学〉の力が要請されていたのである。

さて、すでに難解な文章が立ち現れている。

まず、「バルトが提起した〈本文〉の「還元不可能な複数性」」について考えよう。

田中氏が別の論文において、「素材としてある教材が〈作品〉となるには個々の〈読者〉の生産によって〈個々別々〉の〈作品〉が創出される」*1としているところから敷衍するに、「バルトが提起した〈本文〉の「還元不可能な複数性」と捉えて構わないのではないか。

とすると、「この極限のアナーキーな概念の場」とは、一つの〈読み〉へと収斂しえない〈読む〉という行為の無秩序性を示した言葉であると解釈してよかろう。

ただし、「必ずしも「単なる物質の断片」に化してはいない」というあたりが理解できない。

というのも、バルトが依拠した記号論の根本原理、すなわちすべての記号がシニフィエシニフィアンの組み合わせによるのだとすれば、本来〈読む〉ことで現前に立ち現れる〈本文〉とはその結合のあるパターンに過ぎず、その前にあるのは「物質の断片」ではないか。

実際田中氏本人も「「テクスト」はアナーキー(〈神〉の不在=「物質の断片」)」と記しているのである。

そこでここを一応留保しつつ、先を読む。しかしそこでやはり理解できないのは「主体と客体の相関で捉えられない第三項〈原文〉を仮設してみると」箇所である。つまり、〈読む〉主体でもなく、〈読まれる〉客体でもなく、〈原文〉なるものが存在しているというのだ。そして、その〈原文〉なるものの影=プレ〈本文〉が〈本文〉のなかに観察できるという。

ここにおける〈本文〉とは、「物質の断片」であるテクストを〈読む〉ことによって読者の精神・思考に取り込み、その中へ複写され、その中で構成されたテクストと捉えれば良いだろう。

「すなわち」という接続詞が恨めしくなるが、〈本文〉が実態そのものでも、アナーキーなものでもないというのは、全く理解できない。ただしその後の「到達不可能な《他者》」という部分は理解できる。

というのも、田中氏の根本的な他者観はそれほど難しくないのである。

田中氏によれば、〈他者〉なるものが存在するとして、〈わたし〉が〈他者〉を理解したとき、それは〈他者〉を〈わたし〉の内部に取り込んだに過ぎないという。これを田中氏は〈わたしのなかの他者〉と呼ぶ。一方、それすら及ばない、つまり理解不可能な《他者》が存在し、それを「到達不可能な《他者》」と呼ぶのである。

すなわち、各個人がテクストを〈読み〉、そのことで各自の内部に〈本文〉が存在するとすると、その〈本文〉同士は理解しえない「到達不可能な《他者》」に達すると言う。

しかしそれがこの情報社会に要請されるか否かについては、とても判断を下せない。

すなわちこの論考の内容をまとめればこうである。

読者が〈読む〉行為を通じて内部に生成する〈本文〉には、(それが何かは分からないが)〈読む〉主体とも〈読まれる〉客体とも違う第三項=〈原文〉が存在し、その〈原文〉の影=プレ〈本文〉が〈本文〉に働きかけている。

「断想(Ⅱ)」(『日本文学』第52巻第1号、日本文学協会)

次の「断想(Ⅱ)」は、2ページほどの短い文章であり、こちらには「第三項」をめぐる動向は観察されない。そのポイントは「物語」と「小説」の違いを指摘し、「小説」を評価するところにあると言えるだろう。

田中氏はこの中で「〈語り手〉が物語る形式に拘束されながら、それをふり切る困難と葛藤に「小説」の独自性がある」としている。

〔前略〕いっこく堂の難問は複数の人間を一人で生きる絶対的不可能性、《他者》の顕現にあり、これが主人公主義の「物語」とそこに介入する〈語り手〉の自己表出によって成立する「小説」を分かつ。「物語」では容易に異空間でも相手のなかでも滑り込めるが、「小説」は〈物語の力〉と背き合う《他者》という壁がもう一方に要請されて、近代のアポリアと向き合っているのである。

いっこく堂」がここに導入されているのは、田中氏が〈語り手〉をいっこく堂に導入したからということであるが、「小説」における《他者》の顕現はその通り難問として突きつけられる。

この文章だけを読めば、田中氏にとって「小説」とは、「物語」と違って、理解しえない《他者》が顕現するというアポリアを伴うものだということになる。

実はこの直前で、かつて自らが「小説」を「物語+〈語り手〉の自己表出」としており、それに「〈語り手〉が物語る形式に拘束されながら、それをふり切る困難と葛藤に「小説」の独自性がある」と解説を加えていることからも、このあたりははっきりしているだろう。

ただし、ここが理解できたと思っても、終盤が全く理解できない。

〔前略〕「物語」と化した「小説」から「小説」そのものを奪回再生するには、「物語」との間に際立った対比を示すような〈小説の読み方〉が要請される。これが肝要、日本の近代「小説」は近代宗教や哲学の役割を大きく肩代わりしてきたのであるから。

さて、はたしてそうであろうか。そもそも「物語+〈語り手〉の自己表出」を小説の定義とするならば、「小説」と「物語」の差異とは、「〈語り手〉の自己表出」であるということになる。その差異を対比させるために要請されるのが〈小説の読み方〉とは不思議な話である。

また近代「小説」が近代宗教や哲学の役割を肩代わりしてきたのだという氏の指摘も、何ら具体的例や引用を伴うものでなく、理解しがたいものがある。

「断想Ⅲ」(『日本文学』第55巻第8号、日本文学協会)

この「断想Ⅲ」では、過去の2つの記事で解消されなかった疑問、すなわち「つまり第三項とは何なのか」ということと、「「物語」と「小説」の違いは何なのか」ということに一定の説明がなされる。

 文学作品の文章を「読むこと」、解釈する行為に関する筆者の結論はこうである。客体の文章そのものは決して捉えられない。だが、この捉えられない対象を内包して初めて「読むこと」が作動する。つまり、読み手が捉える対象には常に読み手の主体に捉えられない客体そのもの、すなわち了解不能の《他者》が働いている。これを、もし〈神〉と呼びたいなら読んでもよいだろう。筆者は第三項、〈原文〉と呼んでいて、その影が〈本文〉=〈わたしのなかの他者・文脈〉に働いていると考えている。したがって決してこれは「真」には至らない。捉えた対象は客体そのものではない。だが、客体そのもの、了解不能の《他者》の力が読み手に何らかのかたちで〈実体性〉として働いていて、これがバルトの拒否したはずの文学の「生命」である。文学における「読むこと」は「真」にはなく「善・美」のカテゴリーにある。〔後略〕

ここまで引用すれば、かなり今までの疑問はクリアになるはずである。

まず、ソシュール以来の記号論的解釈、すなわちシニフィアン(記号)にシニフィエ(音)が恣意的に結合されることで初めて意味を持つという解釈に立って、シニフィアン=「物質の断片」(あるいは紙のインクの染み)にシニフィエ=「読む」ことが重ね合わせられて、初めて〈本文〉が存在するようになる。

従って、それは物質的に存在するものではないし、「物質の断片」(あるいは紙のインクの染み)を捉えたと言えるものではない。つまり「物質の断片」は、理解することが不可能である「了解不能の《他者》」を孕む。これを〈神〉と呼ぶのは少し滑稽にすぎる感があるので、田中氏に倣って第三項〈原文〉としよう。

ここまでは理解できるはずである。しかしながら、その次が問題だ。

その影が〈本文〉=〈わたしのなかの他者・文脈〉に働いていると考えている。 

 〈本文〉は先ほど確認した通り、「物質の断片」を「読む」ことで読者の内部に現前するものである。だから、読者〈わたし〉に取り込まれたという点で〈わたしのなかの他者〉と言えるだろうし、それが読者の環境に左右される点で〈文脈〉とされてもおかしくない。

しかし、第三項〈原文〉が〈本文〉に働いているとはどういうことか。それが明示されないまま、次へと向かう。

捉えた対象は客体そのものではない。だが、客体そのもの、了解不能の《他者》の力が読み手に何らかのかたちで〈実体性〉として働いていて、これがバルトの拒否したはずの文学の「生命」である。

さて、シニフィアンとしての「物質の断片」=〈原文〉が存在し、それ自体が「理解」されることなどないというのは、漠然と理解できる。しかし、それが何らかのかたちで〈実体性〉として〈本文〉に作用するとはどういうことか。

「何らかのかたちで」とはどういうかたちなのか、まず示すべきであろうし、そうしない限りはこれは「感覚」や「信仰」ということになる。

また、〈原文〉を第三項としたのは、それが〈読む〉主体でも〈読まれる〉客体でもない第三項に存在するからであるはずだが、ここまでの理解が正しければ、〈原文〉とはむしろ〈読まれる〉客体に内在される理解不可能な部分、あるいは客体そのものとして解釈されるべきではないのか。

ちなみに「断想(Ⅱ)」で「物語」と「小説」を漠然と分別した点については、次のように記述される。

〔前略:太宰治走れメロス」を例に〕メロスの心理を筋あるいはストーリー(すなわち一時ダメだったけど後で頑張ってよかった)に解消するのではなく、倫理的空間、生の場としてこれを読みの批評の対象にすることが近代小説という独自の領域の存在意義、レーゾンデートルの一つである。〔後略〕

これが明白な答えであるように思うが、そう頭では分かっていても、どうも腑に落ちない。近代小説の存在意義が、登場人物の行動が「良かったのか悪かったのか」などという問題としてとらえられるのは、文学作品の矮小化としか思えないし、文学作品を道徳教材的に活用したいのであれば、そもそも訓育的文章を別に書けばよいのであって、物語の形を取る必要などないからである。

「断想Ⅳ」(『日本文学』第57巻第3号、日本文学協会)

さて、この一連の「断想」シリーズの終わりが、2008年のこの論考である。副題に「第三項という根拠」とあることからも、ある程度市民権を得始めてきた第三項理論を改めてプッシュする内容になっている。

〔前略〕「読むこと」はまず〈わたしのなかの現象〉であり、対象を読むことが自己を読むことになるという反転行為の一元論に立つのだが、そこには原理的に虚偽が潜むことを共通認識とする必要がある。文学教材で思考力を付け、表現力を付けるとはこの反転行為の言語化の過程で磨かれること、「自己倒壊」を続けていくことであり、自己教育を必要としているのである。特に近代小説を読むには、そのメカニズムの外部、了解不能の《他者》(第三項、うなぎ、トトロ、星の王子さま)を要請する。〔後略〕

ここにおいて注目すべきは3点である。

第一に、「読むこと」を〈わたしのなかの現象〉としたのは、田中氏の言葉を使えば「物質の断片」(シニフィアン)を「読むこと」(意味(=シニフィエ)づけること)によって〈本文〉が生成される一連の流れは〈わたしのなか〉で完結しているのだから、〈わたしのなかの現象〉と呼んで間違いないだろう。

第二に、そこにおいて「読む」行為が、自らを(厳密には自らを取り巻くコンテクストを)表面化させる点で、「自己を読むこと」につながることも理解できる。そしておそらく田中氏は、そのことを「自己倒壊」と名付けている。

第三に、これは理解できない点であるが、そのためには「了解不能の《他者》」が必要であるという。

 文学作品の文章を読む場合、第三項を布置するとは叙述のすべてを〈語り─語られる〉現象とすることにほかならない。その際、作中での実体の〈語り手〉と語られた人物を読むだけでなく、語っている語り手をさらに相対化して〈機能としての語り〉を読み取り、これを内的構造化するのであるが、そこに「第三項」を想定することが急所である。ここに起こる内なる葛藤の過程が〈自己倒壊〉をもたらすこと自体の囲い込み、対象化が可能となる。批評もまたそこに誕生する。

まず、「断想Ⅲ」までに確認してきたように、当初、第三項=〈原文〉とは、〈読む〉主体と〈読まれる〉客体の二者関係に属さず、客体の中においても〈読まれる〉=〈理解される〉ことのない「了解不能の《他者》」を指していたはずである。

とすれば、第三項は布置するまでもなく存在するのであり(そしてそのこと自体は漠然と信じられるが)、「叙述の全てを〈語り─語られる〉現象とすること」などできるはずがない。また、〈語り─語られる〉現象を、読者が読み取ることができる限り(理解することができる限り)、それは第三項とは言えないのではないか。

もちろん、語り手を相対化し研究・考察する必要性というのはある。しかし、そこに「第三項」が入り込んでくるのはなぜなのか。

また、最後から2文目は酷い悪文であると言って差し支えなかろう。

「ここに起こる内なる葛藤の過程が〈自己倒壊〉をもたらすこと自体の囲い込み、対象化が可能となる。」という文章の主語はいったい何か。ガ格が2つ登場する上に、そのどちらとも主語とは思えない。

おわりに

まず今回田中実氏の「断想」とつく一連の論考から分かったのは以下のことである。

  1. シニフィアンとしての物質の断片を「読む」=意味(シニフィエ)づけると、個人の中に〈本文〉が生成される。
  2. 〈本文〉生成に関わらず、読まれえない「了解不能な《他者》」なるものがテクストには存在し、それを〈原文〉と呼ぶ。
  3. 〈原文〉はプレ〈本文〉として何らかのかたちで作用している。

それに対して、理解できなかったのは次のことである。

  1. テクストに存在する「了解不能な《他者》」とは何か。
  2. プレ〈本文〉は〈本文〉にどのようなかたちで作用しているのか。
  3. 第三項が叙述の全てを〈語り─語られる〉現象とするとはどういうことか。
  4. 〈自己倒壊〉とは具体的にはどういうことか。

それについては、次回以降、別の論文・論考を読むことで解決していきたい。

*1:田中実「他者へ」『日本文学』第37巻第7号、日本文学協会