#3 E.T.A.ホフマン『クルミわりとネズミの王さま』

f:id:kotaroh-yamamoto:20190720181209j:plain

あらすじ

クリスマス・イヴの日,マリーはドロッセルマイヤーおじさんからのプレゼントの中に,クルミわりを見つけます…夢と現実が入りまじって紡ぎ出されるドイツの幻想的な物語.

クルミわりとネズミの王さま - 岩波書店

〈曖昧な合間〉と『クルミわりとネズミの王さま』

はじめに

E.T.A. ホフマンの作品の特徴について土屋邦子氏は次のように述べている。

E.T.A. ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 1776-1822)の重要な作品は、分身や変身のモチーフに代表されるように二重性と深い関わりを持っており、日常と非日常、市民と芸術家、感情と理性、意識と無意識といったに世界を対立的に際立たせながら、幻想への迷妄と現実への覚醒を主題化したものが中心をなす。

(土屋邦子「E.T.A. ホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』における二重性の超克」神戸大学ドイツ文学界『DA』第11号(2015年)、p.51)

実際、本作『クルミわりとネズミの王さま』 においても、主人公の少女マリーが、クリスマスプレゼントにクルミわりが送られたことをきっかけに広がるマリーの「幻想」と、そのマリーを囲む人々による「現実」的視点が相克する場面が多く見られる。

しかし、そうした「現実」と「幻想」という二項対立は、完全に分断されえるのだろうか。つまり、その合間に汽水域的などっちつかずの部分は存在しないだろうか。

今回は「現実」と「幻想」の間にあって両者を橋渡しする役割を担っている部分を〈曖昧な合間〉と呼び、それがどのように描かれるかを見ていきたい。

メタ的視点から見る〈曖昧な合間〉

作品の内容に入る以前に、作品の構造に関して〈曖昧な合間〉であると考えられる点が二か所ある。

第一に、作品を通して「語り手」たるドロッセルマイアーと作者E.T.A. ホフマンの関係であるが、これについては既に以下の通り指摘されている。

枠物語のなかでの「語られるドローセルマイアー」と枠物語を「語るドローセルマイアー」とが容易に通底してしまうのは、「語り手」としてのドローセルマイアーの語りの基底が物語における現実と物語における幻想との境い目にあるからであり、この境界を明瞭にさせていないためである。さらにまた、こうした「語り手ドローセルマイアー」に「奇妙なうすらわらい」を浮かべさせている作者ホフマンにとって、物語における現実と幻想との区別があいまいであること、もっとポジティヴにいえば、作者ホフマンが物語における現実と物語における幻想とをまったく等価なものとみていることに理由がある、と考える。

(矢野正俊「「くるみ割り人形」の物語 ──ホフマンとデュマ、その語りの基底について──」静岡大学静岡大学教養部研究報告 人文・社会科学篇』第28巻第2号(1993年)、p.99)

事実、ドロッセルマイアーは作中においても、クルミわりを得た後、深夜にその戦いを「目撃」し、最後にはガラス戸にぶつかって大けがを負ったマリーに対して、次のように話しかけている。

「しかしね、マリーちゃん、きみ、ほんとのことをいってごらん。」おじさまがお母さまをさえぎっていいました。「マリーちゃん、きみはこのクルミわり、かっこうがいいとはおもっていないだろ? 顔だって美しいとはいえないよね。どうして、こんなみにくいからだつきや顔がクルミわりの家系にはいりこんで、受けつがれるようになったか、もし、きみが聞きたいというのなら、はなしてあげるんだけどな。それとも、きみ、もしかしたら、ピルリパート姫と、魔女のネズミリンクスと、器用な時計師のおはなしを、もう知っているかい?」

ドロッセルマイアーから聞かされた「かたいクルミのおはなし」をきっかけに、その後マリーの「幻想」的世界が更に拡大・構築されていく。つまり、このドロッセルマイアーの発話自体が「幻想」への橋渡しとしての〈曖昧な合間〉として存立する。

この〈曖昧さ〉はその後のドロッセルマイアーの発言の揺らぎにも表れている。

「ああ、ドロッセルマイアーさん、もしあなたがほんとに生きているんだったら、わたしはピルリパート姫みたいにあなたをさげすんだりしないわ。あなたが美しい若ものでなくなったのは、わたしのためだもの!」
とたんに、ドロッセルマイアーがさけびました。
「ほい、ほい、──ばかな、たわごとだわい。」

このような描写から、「幻想と現実の境界領域でふるまってきたドローセルマイアーの〈あいまいさ〉は消滅し、かたい枠組みにはまった事実の世界から一歩も出ることはなくなってしまっている」 と言うことができる。しかしそのこと自体が〈曖昧さ〉の中にいたり、あるいはそれを否定して見せたりするという〈曖昧さ〉の中にあるとも言えるのではないだろうか。

さて、こうした〈曖昧な合間〉として「現実」と「幻想」の橋渡しをする役割を担う、それ自体〈曖昧さ〉に満ち満ちたドロッセルマイアーであるが、その職業は上級裁判所の判事であると明言される。この点、「職業は「裁判官」で「背はひくく、やせっぽち」原作のドローセルマイアーはホフマン自身の容貌・職業にほぼ一致することからも、ホフマンがドローセルマイアーにみずからを重ね合わせていたことは明らかである」 。

つまり、〈曖昧な合間〉としての役割を担うドロッセルマイアーは、それ自体が「小説」という「虚構」と「作者」という「現実」を繋ぐ橋渡しをする上に、更にそのドロッセルマイアーが作中で更に「かたいクルミのおはなし」をする枠物語の形式をとることで、「かたいクルミのおはなし」という「幻想」の中に登場するドロッセルマイアーと、『クルミわりとネズミの王様』を著したE.T.A. ホフマンとの〈曖昧な合間〉として存在していると言える。

第二に、作中に現れる風景の描写についてである。E.T.A. ホフマンとその風景の描写の関係については、既に以下の通り指摘されている。

ベルリーンを舞台とするホフマンの作品を集めてハンス・フォン・ミュラーが『十二のベルリーン物語』を編んだことからも見てとれるように、この都会は何よりもまず、彼の創作活動にとって最も重要な素材提供者のひとつであった。

(光野正幸「ふたつのベルリーン物語 ─E・T・A・ホフマンにおける都会の描写と「語り」の原理──」十九世紀ドイツ文学研究会『ドイツ近代小説の展開』(1988年)、p.275)

本作においても以下のような場面が見られる。

クルミわりは先に立って歩いていきました。うしろからついていくと、玄関ホールにおいてある古い大きな洋服だんすのまえまでいって、とまりました。マリーは、おや、とおもいました。いつもはしまってるこの洋服だんすの戸が両方ともあいていて、いちばん手前にかけてある、お父さまのキツネの毛皮の旅行用オーバーが見えていたからです。クルミわりは、洋服だんすのへりや縁飾りをつたって器用によじのぼり、お父さまのオーバーの背中にふといひもでむすびつけてある大きな房をつかみました。そして力いっぱい引っぱると、毛皮のオーバーの片方の袖から、ヒマラヤスギでできたきゃしゃなはしごがするとおりてきました。

この後マリーは、「氷砂糖の牧場」「アーモンド・干しぶどう門」「クリスマスの森」「オレンジ川」「キャンデーの町」「バラのみずうみ」を経て「お菓子の都」へと至る。これについては、「市壁に囲まれ整然と区画された町を後に、父権の象徴ブランデンブルク門を抜けティーガルテンの緑のなかへ吸い込まれてゆく歩行者の身体感覚に重ね合わせてみると、幻想的情景を演出するホフマンの仕掛けが、ベルリンの地理と不可分であ」 り、こうした情景描写それ自体が「現実」の世界と「幻想」の世界を繋ぐ〈曖昧な合間〉として作用していると言えるだろう。(識名章喜「フリードリヒシュタットの見霊者E.T.A. ホフマン ──ロマン派はベルリンを発見したのか?──」日本独文学会『ドイツ文學』第101巻(1998年)、p.8)

クリスマスから始まる〈曖昧な合間〉

ここまでで本作を取り巻くメタ的側面の〈曖昧な合間〉としての側面を示してきた。ここからは作中においてどのような点に〈曖昧な合間〉が見られるかを、時間的側面と物理的側面の二方向から読み解いていきたい。

第一に時間的側面である。まずこの物語はクリスマス・イヴから語り起こされ、プレゼントが翌日渡されたことから始まるマリーの「幻想」に端を発する。言わずもがなクリスマスとは12月25日であるが、この点から欧米ではクリスマスと新年が同時に祝われることも多い。つまり、クリスマスという時期そのものが「ゆく年」と「くる年」の間の高揚感漂う〈曖昧な合間〉であると言える。

また、それに似た時間的な〈曖昧な合間〉が見られる場面も存在する。

それから、戸棚のガラス戸をしめ、寝室へいこうとしました。
と、そのとき……、ほら、しずかに! みんなも耳をすましてごらん! ひそひそとささやくような、がさごそとなにかが動くような、かすかなもの音が聞こえてきました。音は、ストーブのうしろや、いすのうしろや、戸棚のうしろや、そこらじゅうから聞こえてきます。気がつくと、いつのまにか、壁の時計のうねりが大きくなっていました。うなりはどんどん大きくなってゆくのに、時計はどうしても鳴ることができないようです。
マリーは時計を見あげてみました。すると、時計のてっぺんにとまっている大きな金色のフクロウが、つばさをおろして時計におおいかぶさっていました。そして、くちばしのまがった、ネコのようないやらしい顔を、ぐいとまえにつきだしています。時計のうなりがひときわ大きくなって、はっきりと聞きわけられることばになりました。
〔中略〕
すると、ボオオン、ボオオン、ボオオン! 低い、くぐもった音が十二回、鳴りました! マリーは、ぞーっとしてこわくなりました。

マリーが初めて「幻想」の中に取り込まれる場面は、時計がまさに鳴ろうかという午後12時近く(であり午前0時近く)で、ここでもまさにこの時間が「今日」と「明日」、あるいは「昨日」と「今日」とをつなぐ〈曖昧な合間〉として存在している。

第二に、物理的側面である。物理的側面というのは、おそらく「現実」に属するのであろう物に準拠する形で「幻想」が展開されており、かつ、その物は「幻想」に取り込まれているために、「現実」とも「幻想」ともつかない〈曖昧な合間〉として存在している場合である。

まず、先ほどの引用に続く部分である。マリーはその後、大量のネズミたちを見ておそろしく感じ、その挙句、ガラス戸にぶつかって大けがをしてしまう。その後、クルミわりが登場し、そのネズミたちと戦うことになる。しかしそれは全て「幻想」の話であり、大けがから回復したマリーと母親は次のような会話をする。

「あ、お母さま、」マリーは声をひそめていいました。「あのいやらしいネズミたち、みんな、逃げてった? それで、あのいい人、クルミわりさんは助かった?」
「そんな、わけのわからないことをいうんじゃないの、マリー。」お母さまが答えました。「ネズミとクルミわりがどうしたっていうの? ああ、マリー、あなた、お母さまたちをこんなに心配させて、いけない子ねえ。〔中略〕そして、ねむくなってうとうとしていたところへ、ネズミが一匹走ってきて、びっくりしたんでしょ。ふだんはネズミなんて、いないんだけれど。それでドキンとした拍子に、戸棚のガラスにひじがあたったのね。〔中略〕」

この「ネズミ」という存在はその後も「幻想」だけではなく「現実」の場面でもたびたび言及される。つまり、「幻想」の中に登場するネズミが、「現実」の世界にもいるかもしれない、という〈曖昧さ〉によって、「幻想」と「現実」が関連付けられている。この点でネズミは、それ自体が「現実」のものかもしれないが、一方で「幻想」の中に取り込まれ大きな役割を担っている点で、まさに〈曖昧な合間〉であると言える。

他にも、クルミわりも〈曖昧な合間〉としての役割を担っていると言えるだろう。次に引用するのは、その後、ネズミたちとの戦いを終えたマリーがベッドの上で目覚めた後の場面である。

気がつくと、お母さまが介抱してくれていました。お母さまが言いました。
「まあ、どうしていすからころげおちるなんてことを。もうちっちゃな子どもじゃないのに! ──さあ、ドロッセルマイアーさんの甥御さんがニュルンベルクからおいでになったのよ。おぎょうぎよくなさいね!」
〔中略〕
 食事がはじまると、この親切な若ものは、みんなにクルミをわってくれました。どんなにかたいクルミでも、平気でした。右手でクルミを口のなかへ入れます。そして左手で背中の三つ編みの髪をひっぱると、──カリッ!──クルミはちゃんとわれていました!
「おお、世にもすぐれてごりっぱなシュタールバウム家のおじょうさま、あなたのお足もとにおりますのは、あなたによって、ここ、この場所で命を助けていただいた、幸運なドロッセルマイアーです!〔中略〕そのとたん、おかげでわたくしは、みにくいクルミわりの姿から、ふたたび元のみにくくはない姿にもどることができたのです。〔中略〕」

この場面自体が、すでに「現実」と「幻想」のどっちともつかない〈曖昧な合間〉的性質を持ち合わせていると言うこともできるが、とくにクルミわりに関してはそれが顕著である。

人形であるはずのクルミわりが動きだす、というマリーの「幻想」の世界からは「目覚めた」はずであるにも関わらず、そこにやって来たドロッセルマイアーの甥は元はクルミわりであったと告白する。このドロッセルマイアーの甥自体が、既に「現実」に訪れたのか否かが判然とせず、更にそのセリフによって「幻想」の世界に取り込まれており、クルミわりという物理的存在と、それに準拠したドロッセルマイアーの甥の在り方が〈曖昧な合間〉として機能していると言える。

また、前述した洋服だんすから「お菓子の都」への道のりについても、物理的な〈曖昧な合間〉が見出される。

マリーは、おや、とおもいました。いつもはしまっているこの洋服だんすの戸が両方ともあいていて、いちばん手前にかけてある、お父さまのキツネの毛皮の旅行用オーバーが見えていたからです。

この描写からは、「「ふだんは絞められているはずの箪笥の扉が開く」と、「その前面には父親の旅行用狐皮外套」が吊るされて」おり、「閉ざされたものが開かれ、旅行用外套を通して異次元への旅が暗示され」ている。

たんす自体は元々存在し、そして旅行用のオーバーも、マリーがよく見ていたはずの「現実」に属する物だが、クルミわりが登場した途端、それが異世界への橋渡しを担う「幻想」に属する入口に変貌を遂げる。この点で、たんすや旅行用のオーバーも〈曖昧な合間〉として機能していると言えるだろう。

まとめに

上記の通り、二重性が強調されるE.T.A. ホフマンにおける本作品には、「現実」と「幻想」とを繋ぎとめるために役割を果たし、それでいてなお、そのどちらともつかない〈曖昧な合間〉が見られる。

第一に、ドロッセルマイアーに作者E.T.A. ホフマン自身が投影された上で、そのドロッセルマイアーが「幻想」的作中話としての「かたいクルミのおはなし」の語り手となることによる〈曖昧な合間〉。

第二に、作中において登場する「幻想」的な「お菓子の都」への道筋が当時のベルリンの実際の街並みと重なることによる地理的な〈曖昧な合間〉。

第三に、クリスマスや深夜といった、「ゆく年」とも「くる年」ともつかず、「昨日(今日)」とも「今日(明日)」ともどっちつかずな〈曖昧な合間〉。

第四に、「現実」に存在するかもしれない「幻想」のなかのネズミという〈曖昧な合間〉。

第五に、「現実」に存在するかもしれないドロッセルマイアーの甥が、「幻想」の中からあたかも飛び出してきたようであるということによる〈曖昧な合間〉。

第六に、「現実」に存在するたんすや旅行用のオーバーが、「幻想」的世界への入口となり、それ自体が「幻想」に取り込まれてしまうことによる〈曖昧な合間〉。

こうしたいくつにも重なる〈曖昧な合間〉によって、この物語は「現実」と「幻想」が互いを排除せず共存しつつ、不思議な印象をまとっているのではないだろうか。