#1 村田沙耶香「授乳」

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あらすじ

受験を控えた私の元にやってきた家庭教師の「先生」。授業は週に2回。火曜に数学、金曜に英語。私を苛立たせる母と思春期の女の子を逆上させる要素を少しだけ持つ父。その家の中で私と先生は何かを共有し、この部屋だけの特別な空気を閉じ込めたはずだった。「――ねえ、ゲームしようよ」。表題作他2編。

『授乳』(村田 沙耶香):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部

〈女〉をめぐる物語

作品は次のように始まります。

 その日の先生の青白い裸足を、私は奇妙によく覚えている。先生は母の出したスリッパの間をすりぬけて、素足のまま廊下へ足をのばした。表面が乾ききり、血管の透けた不健康な裸足に、ゆっくりと先生の体重がのしかかっていく。

ここから既に状況は不穏です。ただし、主人公である「私」が女子中学生で、冒頭が先生というのであれば、何か恋愛に発展してもおかしくないように思います。そうした予想は、儚くも裏切られます。

「私」と先生の関係は、確かに「秘密」とされるべきことかもしれないけれど、それは純粋ではなくて、むしろ汚さにまみれているからです。

まず気が付くのは、「私」がとても母を嫌っているということです。いや、嫌っていると言っても、別に表立ってどうにかするということではなくて、心の中では軽蔑し、あるいは嫌悪しているのです。

例えば母は、おにぎりを作るにしても、タッパーを使って「綺麗な二等辺三角形をした、三つを合計したらちゃんと180度になりそうなつんとした角のあるおにぎり」を作りますし、料理を作るにも、きちんと計算する。

そんな母は、父を憎んでいることが分かります。

 父は家ではあまり人間に話しかけず、テレビを見ながら時折、声をだして笑う。そういう時、母は同じ画面を決して笑わずに見つめている。私にはわかる。母は父と同じ感情を共有したくないのだ。〔後略〕

しかしそれは、ある意味で〈男〉に対する〈女〉として、あくまでそう振る舞うべきでそう振る舞うような部分があります。つまり〈女〉は〈男〉を嫌うべき、という女性性のようなものが透いて見えるのです。

これと真逆のことはよく言われます。例えば〈男同士の絆〉と呼ばれるホモソーシャルな関係の中では、女性嫌悪ミソジニー)と同性愛嫌悪(ホモフォビア)が信条として共有されるのです。

こういう風に、〈女同士の絆〉に組み込まれることを、「私」は嫌っている節があります。

 干されている洗濯物のなかに母の下着はない。母はいつも自分の寝室にハンガーをかけて自分の下着を干す。以前は違った。一年くらい前まで、母は父の洗濯物と、私と母の洗濯物を分けて洗っていた。そのころ母はよく私に言った。

「直子も、お父さんのと一緒に選択するの、やでしょ」

 私はそう言われるたび、学校でクラスメイトにいっしょにおトイレいこうと言われたときのように、ざわっと鳥肌が立った。

つまり、この両親と一人娘という家庭にも、〈男〉と〈女〉という厳然たる区別が存在していて、それが最も現れるのは洗濯だった、ということでしょう。しかし「私」がこの後、ある悪戯をしたことで、「私」は〈女〉の連帯=母との連帯から追放されます。

この母が発する「やでしょ」という発言は、川上未映子の「乳と卵」の冒頭、緑子の記録を思い出させはしないでしょうか。

いや、という漢字には厭と嫌があって厭、のほうが本当にいやな感じがあるので、厭を練習。厭。厭。

川上未映子「乳と卵」文春文庫)

この緑子は、母親がいかにも〈女〉として振る舞うことに違和感を感じてしまう存在です。というのも彼女自身が第二次性徴の時期なのですが、しかし、この「厭」というのは、〈女〉の中のキーワードのように思えます。

かといって、「私」が〈女〉であることを放棄したのか、つまりそういう枠組みから逃れたいと思っているのかと言えば、それは少し違います。

〔前略〕私のブラジャーは少し色あせた水色で、レースがすこしとれかけている。私はそういうぞうきんみたいなひからびたブラジャーになぜか誇りを感じている。また中学生とはいえ、自分の中にある程度腐った女があることの証明のように思えたのだ。〔後略〕

「私」は「ぞうきんみたいなひからびたブラジャー」によって、「腐った」〈女〉としてのプライドを保ちます。

そう、「私」は母を嫌悪しているけれど、それは〈女同士の絆〉というか、連帯そのものを嫌悪しているのであって、〈女〉そのものを嫌悪しているわけではないように思います。

というわけで、家庭教師でやってくる先生について考えましょう。この先生は、赤ペンを持ち合わせておらず、答え合わせもシャーペンで行います。

〔前略〕私のノートは先生のシャープペンの芯でひっかきまわされ、真っ黒に染まってしまった。先生の繊細な文字の上に、芯から湧いた細かな黒い粉がたくさん散らばっている。

まず、私のノート──これは〈純白〉と呼び変えてもいいと思いますが、それは〈黒〉で汚される。そこには特に性的なニュアンスはありません。つまり、単なる家庭教師と生徒、という無性的な関係ということです。

 私は次の問題にとりかかろうとして、ノートがさっきまでなかった染みで汚れているのに気がついた。それは血の跡だった。

〈黒〉で汚されていたノートは、あるとき〈赤〉で汚されるようになる。これは血なのですが、手当てをいやがる先生に、「私」は持ち合わせのナプキンで手当てを行います。それも相まって、この〈赤〉というのは、途端に性的なニュアンスを持ち始めるように思えます。

〔前略〕私は美術の教科書で見かけたマリア像を思い出していた。マリア像を演じるように、暖かく、慈愛に満ちた表情をつくりあげ、先生へ向けた。〔後略〕

私はここで〈マリア〉になる。つまり〈母〉です。それも、処女としての〈母〉ですから、その点で、「私」を父とセックスして産んだ母とは違います。

この時、「私」は〈母〉になったのでした。ですから、当然〈授乳〉させる必要がやってきます──と、そのようなプロセスだったかは書かれていませんが、「私」は先生に自分の乳房をなめさせます。

例えば、家庭教師の授業中、部屋に蛾が入ってくると、「私」は蛾の片方の羽をむしって、汁を先生に擦り付けます。自分で擦り付けつつ、その汁をふき取ります。

「駄目な子ね、こんなに汚して」

 そう言った瞬間、下腹の置くがかっと熱くなり、私はとても心地よくなった。〔後略〕

「私」は〈聖母〉であることによって、性的な方法を用いずに〈女〉であることを証明したのでした。

「私」はルーズソックスを履いていて、そのルーズソックスを「臍の緒に見える」と喩えています。ただし思い出してみると、先生は裸足なのでした。このことは、先生に居場所がないことを示しているようであります。というのも、先生は離婚して新しくやってきた父と、母との家族の中で、元の父に似ているせいで「邪魔にされている」らしいのです。つまり、先生には頼りにできるような「臍の緒」が無いのです。

「私」と先生の、家庭教師という立場を利用した密室空間でのやり取りはゲームとしてとらえられていました。

 私はふと、ここしばらく私たちを夢中にさせたゲームの間中、二人とも、一度も「母」という言葉をまるで禁句のように使わなかったことを思い出した。

それはあくまで当然のように思えます。「私」は、先生とのやり取りの中で〈聖母〉になったのですから、わざわざ母親の話をする必要もありません。先生も、自分を邪魔にするような母から離れて〈聖母〉から授乳されることになったのですから、母のことを思い出す必要はありません。

最後のシーンは刺激的です。

寝ている母の乳房に蝿が止まっているのに気が付いて、ローファーのままそれを踏んづけます。かつて蛾の羽をむしったことを思い出しても、「私」がそういうものに対して強権的に振る舞うのが分かります。

彼女は最終的に、蝿という存在を媒介に、母を足蹴にするのです。そこには彼女が〈女〉であること、あるいは〈母〉であることそのものを憎んでいるのではなくて、それが連帯し、〈女同士の絆〉の中で「女らしさ」=女性性が築き上げられていくこと、そのものを憎んでいることが分かります。その点でこの物語は、〈女〉であることを動機とする連帯への拒絶・嫌悪感の上に成り立っているということが分かります。